上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

継体持統⑫:上宮王家滅亡事件の真相

643年に山背大兄王蘇我入鹿に滅ぼされた事件。641年舒明天皇崩御を契機とした政変である。

事件の経緯

  1. 日本書紀による経緯は以下の通り。
    641年10月 舒明天皇崩御
    642年1月 皇極天皇即位
    642年12月 舒明天皇の喪葬の儀
    643年9月6日 舒明天皇を押坂陵に葬る
    643年9月11日 吉備嶋皇祖母命薨去
    643年9月17日 皇祖母命喪葬の儀
    643年9月19日 皇祖母命を葬る
    643年10月6日 蘇我蝦夷病気で出仕せず、紫冠を入鹿に授ける。
    643年10月12日 蘇我入鹿、上宮王家諸王を排し、古人大兄王擁立を謀る
    643年11月斑鳩宮襲撃。山背大兄王一族集団自決。入鹿の行動に蝦夷が怒り罵る。(なお、上宮聖徳法王帝説では10月14日に斑鳩宮襲撃となっている。)
  2. 舒明天皇崩御陵に葬る手続きを終えた直後から、目紛しく政変が起きていることがわかる。
  3. 特に、ポイントは643年10月6日の記事と、10月12日の記事の解釈だろう。

事件の勝者は誰か

  1. 643年の上宮王家滅亡事件後、蘇我入鹿と古人大兄皇子が権勢を得て、蝦夷の権勢は衰え、上宮王家は滅亡した。
  2. 蘇我入鹿は643年10月12日に古人大兄王を天皇に擁立することを謀ったとされるが、古人大兄皇子は事件後に天皇位に執着するような行動は見せておらず皇極天皇の地位は安泰となっている。

643年10月6日は入鹿のクーデター

  1. 643年10月6日の記事は、蘇我蝦夷が勝手に入鹿に自分の地位を譲ったとして有名な記事だが、「勝手にゆずった」のだろうか?
  2. 以後の経緯を見ると、蘇我入鹿蘇我蝦夷に対して優位に立っているように見える。
  3. したがって、10月6日の記事は、蘇我入鹿蘇我蝦夷に対しクーデターを引き起こし、蘇我本宗家の地位を獲得したと解釈できる。
  4. そもそも、稲目以来、蘇我家大臣家であり、入鹿が蘇我家大臣家家督を継いだだけで、「勝手にゆずった」は心外だろう。
  5. 入鹿がクーデターにより「勝手に家督を継いだ」、ということだろう。

643年10月12日の古人大兄皇子擁立記事

  1. 蘇我蝦夷628年推古天皇崩御時の政変以来、上宮王家の山背大兄王聖徳太子の後継者として支持していた。
  2. 祭祀を担う天皇とは違い、執政を行う天皇家として、用明崇峻と続き、593年に聖徳太子崇峻天皇の後継に収まった。628年の政変では上宮王家内の争いがあり、泊瀬王が排除され、山背大兄王聖徳太子後継に収まった
  3. このような背景からすると、蘇我氏の母を持つ古人大兄皇子が、舒明天皇の後継を狙ったのか、聖徳太子の後継の地位を狙ったのか。
  4. 「上宮の王たちを廃し、古人大兄皇子を立てようと謀る」日本書紀は記載している通り、古人大兄皇子が上宮の王の地位=聖徳太子の後継の地位を狙ったもの。
  5. 天皇の地位を狙ったものではないと解釈できる。

事件の構図

  1. このように、用明天皇からはじまる執政王家の地位を古人大兄皇子が狙ったというのが上宮王家滅亡事件の構図である。
  2. 上宮王家は蘇我蝦夷が支持していて、古人大兄皇子は蘇我入鹿が支持していた。
  3. 10月6日に蘇我蝦夷が病に倒れたことから蘇我入鹿がクーデターを引き起こし蘇我本宗家=大臣家の権力を掌握、12日に上宮王家討滅の同意を政権内で得て一気に斑鳩宮を襲撃して上宮王家を滅ぼした
  4. 日本書紀斑鳩宮襲撃を11月とするが、上宮聖徳法王帝説の10月14日説のほうが、政変の経緯としては正しいように見える


641年舒明天皇崩御から始まり643年の上宮王家滅亡に繋がった政変は、

というそれぞれの地位での政権交代であったと理解できる。