乙巳の変のエピソードも天智天皇から妃を賜った件も作り話とすると、中臣鎌足が天智天皇の寵臣であったこと自体に疑問が出てくる。
侮れない天武天皇との関係
- 壬申の乱で中臣氏が近江朝の重臣であったことから、天武天皇は鎌足の遺族を冷遇していたという説が多いが、本当だろうか?
- 天武天皇が天智天皇の娘を4人も娶ったのは有名な話だが、天武天皇は鎌足の娘についても2人も娶っている。妃の年齢からして壬申の乱後のことと思われる。
- 一方の天智天皇は鎌足の娘を娶っていない。
- 系譜を見る限り、鎌足は天智天皇より天武天皇に近かったと解釈できる。


孝徳・鎌足・天武という親新羅派人脈
- 天智天皇のブレインである鎌足は当然親百済派であったとする解釈が多いが、本当だろうか?
- 蘇我入鹿が親百済路線で新羅を滅ぼそうとしていたのに対し、孝徳天皇は親唐親新羅路線を走った。
- 鎌足は孝徳天皇の寵臣であったから、親唐親新羅派であったと思われる。
- 鎌足が白村江の敗戦処理として郭務悰らと交渉した経緯は日本書紀にしっかり記載がある。本来の親唐親新羅人脈を駆使していたと思われる。
- 鎌足とは系譜からは親しい関係にあったようにみえる天武天皇も親新羅派だ。
- 壬申の乱の真因は、近江朝が唐と連携して進める新羅掃討作戦に反対した天武天皇が新羅出兵用に調達した東国の兵力を奪って土壇場で新羅出兵を止めた戦いであった。
- 持統朝以降、親百済となったため日本書紀は反新羅的記載となっているが、天武天皇は親新羅であり古事記はどちらかというと親新羅的である。
- このように孝徳・鎌足・天武は親新羅である。
- 一方で、入鹿・皇極・天智・持統・不比等は親百済。
以上、日本書紀をよく読むと、天智と鎌足は相性が悪いようにしか見えない。
実は天智とは仲が悪かったんじゃなかろうか。
※【補足】俗説では、中臣鎌足の長男定恵は孝徳天皇のご落胤、次男不比等は天智天皇のご落胤で、男系で鎌足の血を受け継ぐものはいない(継体持統⑯:鎌足の切ない境遇 - 上古への情熱)が、女系は以下の通り、かろうじて、宇多天皇につながっている。