日本書紀をよく読むと、天智と鎌足は相性が悪いようにしか見えない。実は天智とは仲が悪かったんじゃなかろうか。
孝徳天皇の寵臣としての働き
- 軽皇子=孝徳天皇が乙巳の変の首謀者であるというのは、遠山美都男先生により解明され、近年相当に市民権を得てきた。
- 中臣鎌足は孝徳天皇の寵臣であったのは間違いない。
- 従って、中臣鎌足は乙巳の変で暗躍していたのは間違いないだろう。
- 一方の中大兄皇子は乙巳の変当時は10代の若年。日本書紀のような鎌足との密談はフィクションとしても、乙巳の変では三韓の調の儀式に皇族として古人大兄皇子とともに侍立していたのだろう。若い武者は儀式の見栄えも良くする。
- 鎌足は侍立していた皇子たちを守る役を演じていたくらいはあったと思われる。
- 皇極天皇と諸皇子の安全を計ったことが、皇極天皇・中大兄皇子サイドに高く評価されていたということではなかろうか。
- 想像を逞しくすると、軽皇子は入鹿のみならず古人大兄皇子や中大兄皇子もターゲットとしていたが、上宮王家殲滅が評判が悪かったとして、鎌足が入鹿のみにターゲットを絞るよう進言していたのかもしれない。
- いずれにせよ、乙巳の変で諸皇子を守る何らかの役割を鎌足は演じたことから、中大兄皇子と縁ができ、その後の活躍に繋がったと思われる。
白村江の敗戦処理
- もともと、孝徳陣営が入鹿を排除した論理としては「新羅・唐連合に歯向かうなんて狂気」であったことから、新羅・唐連合との戦争である白村江の戦いに鎌足が賛成したとは思えない。
- このため白村江の敗戦までは鎌足は中大兄皇子とは距離をとっていただろう。というか、方針が違いすぎて遠ざけられていただろう。
- 鎌足の真価は白村江の敗戦処理に現れる。
- 白村江の戦いは未曾有の国難であり、西日本の兵力はすべて注ぎ込まれて海の藻屑と消えた。文字通り国軍が全滅。
- この状態で唐に攻め込まれても兵力が全くない状態だっただろう。
- ここを外交で凌いだのが鎌足であったと思われる。高句麗滅亡まで唐の興味が倭国に向かうのを防ぎ、外交努力で国難を凌いだ。
鎌足薨去のタイミングは極めて絶妙
- なんとか高句麗滅亡まで外交努力で唐軍の倭国への侵攻を防いだが、668年に高句麗は滅亡してしまい、新羅は唐の完全な属国化していて朝鮮半島は唐軍に平定されてしまった。
- 当然、次のターゲットは倭国!
- この国難への対策として鎌足は何を考えていたのだろうか。
- 670年に新羅が唐に反抗を始める直前の669年に鎌足は亡くなった。
- 当然、死の直前には新羅が対唐ゲリラ戦線を始めるという情報は鎌足にもたらされていただろう。
- 新羅ゲリラに加担するか、唐の新羅ゲリラ殲滅作戦に加担するか。
- 普通に考えれば、唐の要求をノラリクラリとかわし、新羅ゲリラに加担する作戦を考えていたはず。
- というか、新羅を対唐ゲリラ戦線に駆り立てた黒幕が鎌足だった可能性がある。唐の倭国への侵攻を防ぐため、鎌足は新羅支援に動いていた。
- ここで、唐に降伏しようとしていた天智天皇と対立する。このタイミングで鎌足は舞台を去った。
- ということは、天智天皇に粛正されたとの解釈もできる。天武天皇が鎌足の遺児二人を妃としたのも、鎮魂の意味があるとすると納得できる。
鎌足の死後、唐の要求に従って新羅ゲリラ殲滅作戦に加担しようとした天智天皇と、唐の要求に応えず新羅ゲリラ殲滅作戦を止めた天武天皇。