中臣鎌足主導のもと668年末に一旦は新羅レジスタンス支援を決めたが、669年10月中臣鎌足薨去以降は近江朝廷では親唐派が勢力を盛り返す。中臣鎌足薨去の前後で政策が転換していて鎌足は暗殺された疑いが濃厚である。
668日新羅同盟
- 668年9月12日高句麗滅亡の裏で、同日に新羅使である金東厳が来日。金東厳と中臣鎌足で新羅レジスタンスを支援する同盟を結んだ。
- 派兵等の具体的な支援はなかったので、あくまでも心理的なもとなったが、新羅とすれば背後から襲われる不安は大変辛いところ。
- 日新羅同盟で背後の安全を確保することで、新羅は安心して唐へのレジスタンスをスタートさせた。
鎌足が新羅使を呼び寄せた
- すでに何度も(継体持統㊴:高句麗滅亡と新羅使の来日 - 上古への情熱)述べたように、658年有馬皇子粛清以降、反新羅で固まっていた我が国が新羅と同盟するというのは青天の霹靂。そんななかで金東厳が来日できたのは、やはり親新羅派の中臣鎌足が呼び寄せたと見るのが自然だろう。
- 鎌足の偉大な功績であるが、背後には反唐派大海人皇子の強い支持があったと思われる。
中臣鎌足は本当に病死か?
- 668年日新羅同盟の一年後の669年に中臣鎌足は薨去した。
- 病死とされていて、年齢を考えても病死は自然であるが、以後、親唐派が盛り返すことを考えると、暗殺を疑ってもいい。
- 特に、親唐派の蘇我赤兄は日本書紀では病気療養中の鎌足を見舞っており、暗殺犯ブラックリスト筆頭。
- さらに蘇我赤兄の裏には大友皇子と天智天皇がいたと思われる。
近江朝の反新羅感情
- 近江大津宮は百済官僚が多数住む街。
- 朝鮮半島の一連の混乱を引き起こしたのは新羅であり、亡命百済官僚からすると悪の権化の新羅を支援するのは納得できないだろう。
- 一方、唐は百済遺民への懐柔政策をとっており、百済の権益を新羅に渡していない。
- 亡命百済官僚からすると唐に肩入れして百済復興を考えることも理に適っている。
鎌足の死因は暗殺で藤原賜姓は天武の虚構?
- 中臣鎌足薨去はタイミングからして親唐派による暗殺の疑いが濃厚である。
- 天智天皇の意を受けた蘇我赤兄が中臣鎌足亭に押しかけて暗殺。
- なお、薨去当時に中臣鎌足が藤原姓と大織冠を受けたとは思われない。特に大織冠を受けるような高位には中臣鎌足はなかった。
- 日本書紀によると、この藤原姓と大織冠授与は、なんと大海人皇子が行っている。これは実に怪しい。
- 大海人皇子が藤原姓と大織冠を授けたというのは大海人皇子=天武天皇による後付けで、即位後の685年頃に「朕が鎌足に藤原姓と大織冠を授けたんだ。文句あるか?」として既成事実化したと思われる。
- 藤原賜姓は685年頃まで顕在化せず、謎が多いが、「685年頃の天武天皇の思いつき」とすると、色々説明がつく。
- 天武天皇は何かと助けてくれた鎌足に報いたかったのであろうが、これが後に持統天皇と藤原不比等に利用されて、藤原氏大発展の原動力となる。
暗殺犯は中臣金?
- 壬申の乱の結果、斬られた重臣は中臣金だけで、蘇我赤兄は流罪となっている。
- とすると、大海人が絶対に許せなかったのは中臣金であったことになる。
- 鎌足薨去まで活動記録のない中臣金であるが、鎌足暗殺を実行し、天智天皇の信頼を得て、中臣氏を継いだとするのは、納得のいく解釈ではある。
手を下したのは蘇我赤兄か中臣金。
藤原賜姓や大織冠授与は685年頃に天武天皇が鎌足を偲んで既成事実化させた虚構。
