672年6月29日に大伴吹負は倭京で蜂起したものの手勢は極めて少ない。大和盆地を7月3日までは制圧できたが、7月4日に大津宮の大軍が到来し総崩れとなる。
672.7.1 大和盆地守備体制の構築
- 6月29日の蜂起にはなんとか成功し、大和盆地南部の三大有力者、東漢氏族、鴨君、三輪君の支持をとりつけ、大和盆地全域の制圧と、河内・山城から大和盆地に入る各道の封鎖を企図した。
- ところが、やはり圧倒的に手勢が少ない。各道とも数百の兵しか配置できず、総勢は多くて千を超える程度。
- これでは早晩瓦解する。
大津宮の素早い対応
- 当時の大津宮兵力は北陸道軍が主力でおそらく全て集めて最大2万程度。
- このうち1万程度を山部王指揮のもと羽田公矢国が統率して29日頃に不破に向けて出発させた。
- 残り1万は難波から大津宮にかけて朝鮮出兵準備の人夫として分散させていた。
- 7月1日には大伴吹負蜂起を知らされ、大津宮は急遽、分散している残り1万に大和侵攻を指示する。
672.7.2衛我河の戦い
- 壱岐史韓国は自身が管理する玄界灘艦隊に武具を艤装する作業を担当。手勢はおそらく2〜3千人程度で、高安城から武具を玄界灘艦隊が寄港している難波港に運ぶ予定で、7月1日中に高安城から武具を運び出した。
- 7月2日未明に大津宮から大伴吹負が蜂起した旨の知らせを受け、高安城方面へ戻ったところ、大伴側の坂本臣財(紀氏一族)の兵約百人と遭遇。一瞬で蹴散らした(衛我河の戦い)。
河内国司来目臣塩篭の反乱
- その後、壱岐史韓国は、河内国司来目臣塩篭(蘇我氏族で田中臣と同族)が叛旗を翻すかもしれないと思い、河内国衙へ乱入。来目塩篭を自殺に追い込んだ。
- 来目塩篭自殺は7月2日の記事にあるが、次に壱岐韓国が登場するのが7月7日か12日に比定される当麻の戦いであるので、自殺は7月2日では必ずしもない。
- 河内国衙と7月2日以降に戦闘状態に入り、数日かけて陥落させて来目塩篭自殺となったと思われる。
- 日本書紀では来目塩篭は軽く自殺してしまうが、実際は大暴れしていただろう。壱岐韓国の動静からして数日は暴れたようだ。
- 来目塩篭の名誉は回復されて然るべきかと思われる。
672.7.4乃楽山の戦い
- 大伴吹負は大和盆地周辺の道を封鎖しながら徐々に北上。最終的には乃楽山を防衛線として7月3日に布陣した。乃楽山での兵力はおそらく3ケタ。極めて心許ない。
- 一方の大津宮。急遽山背に軍勢1万弱を集めて大野君果安を将軍として7月4日に大和侵攻。乃楽山で大伴吹負を軽く撃破した(乃楽山の戦い)。
- 大伴吹負は手持ちの兵力が少なすぎて大和盆地全体に防衛線を張るのはそもそも無理であった。
倭京伊賀鈴鹿ルートの防衛
- 大伴吹負自身は倭京伊賀鈴鹿ルートの入り口である三輪山南麓を流れる初瀬川上流の墨坂を最終防衛線とした。というか、従うものは数騎と大惨敗で大和盆地の奥底まで逃げてきた。
- 一方で、倭京から伊勢尾張へ抜ける旧道、倭京伊賀鈴鹿ルートの確保は戦略上重要。
- この旧道を大津宮に押さえられてしまうと、東海道への連絡を許してしまい、大海人軍を背後から襲うことができてしまう。このため、旧道を押さえることが絶対使命であったことを考えると、墨坂を封鎖することが大伴吹負の最低限の任務であったことがわかる。
- が、大野果安は侵攻してこなかった。
- 日本書紀では織田信長の遠祖の忌部子人らの機転で防いだことになっているが、おそらくは、7月2日に羽田矢国の軍勢が大海人側に投降してしまったことから、大野果安軍は大津宮防衛に呼び戻されたのだろう。
置始連菟の援軍到着は7月9日
- 日本書紀では、大伴吹負は墨坂で置始連菟の軍と邂逅し大和盆地に引き返したとしており、7月4日中にあったことのように書かれている。
- ところが、日本書紀の別の記事では紀阿閉麻呂軍から置始連菟率いる千余騎が派遣されたのが7月9日となっていて矛盾している。通説では7月9日は4日の間違いとしているが、日本書紀の記述通り9日との解釈が可能。というか、9日で正解。
- 日本書紀は大伴氏の家伝に基づき倭京攻防戦を書いたと思われるが、その原資料には日時が書いていなかったようだ。
- このため吹負は7月4日墨坂撤退時にすぐに置始連菟に会ったように書いている。
- 実際には乃楽山の戦いで大惨敗し大和盆地の奥底まで逃げて戦力ゼロの状態で7月9日までの5日間潜伏していたと思われる。
- 紀臣阿閉麻呂軍の7月5日6日倉歴道での攻防を考えると、7月4日の乃楽山の戦いの惨敗の報に接して(そもそも報に接したも最短で7月5日)すぐに置始連菟率いる千余騎の救援隊を派遣することはほぼ無理だからだ。
- 7月5日6日倉歴道での攻防で甲賀からの大津宮軍を撃退し倉歴道防衛にメドがついたことから、7月9日に置始連菟率いる千騎を倭京墨坂に派遣できたと解釈できる。
派手に大和で暴れたような印象を受ける大伴吹負であるが、実際にはあまりにも少ない手勢で、ほとんどテロ行為のようなものであったようだ。
それでも、大野果安に大軍を大和盆地に侵攻させ、不破への勢力を削いだという意味では、大成功の陽動作戦と言えるだろう。

