668年9月高句麗滅亡。直後から新羅は唐に対してレジスタンスを開始する。局地でゲリラ戦を引き起こし、唐から怒られたら唐本国へ謝罪使を派遣するという二枚舌外交を展開する。
こんなハズでは。。。。
- 668年9月高句麗が滅亡し唐が朝鮮半島の支配を完成させた。唐としては新羅は支配下であり、高句麗滅亡で朝鮮半島支配は完成という認識である。
- 新羅としては、唐からの見返りはなく、百済領も高句麗領も唐のものとされ、新羅自身も完全に属国扱いとなるなど、新羅にとって、まるでメリットのない状態。(高句麗百済日本に滅ぼされる心配は少なくなったが)
- もともと唐を朝鮮半島に引っ張り込んだのは新羅。
- 『こんなはずではなかった。。。。』とは新羅の率直な感想であろう。
新羅の変節
- そこで669年初頭には局地戦として百済の一部領域を占領するという実力行使をして、直後に唐本国から咎められると669年5月には謝罪使を唐本国へ出して謝った。
- 以後、新羅は、『ゲリラしたあと謝罪する』という二枚舌外交を展開。
- 670年には新羅は現地唐軍と本格的に闘争状態に発展させた。
新羅使の来日
- 668年9月12日高句麗滅亡のまさにその日に、久しぶりに新羅から公式の使節が来日した。
- すでに『継体持統㊴:高句麗滅亡と新羅使の来日 - 上古への情熱』で述べたように、高句麗滅亡を見据え、我が国側の親新羅派が新羅使を招聘したと考えられる。
- 658年有馬皇子の変以降、我が国では長年に渡り反新羅政策をとっていて、このタイミングで新羅使を受け入れるというのは、我が国側の事情との解釈が自然。
中臣鎌足の読み
- もともと親唐親新羅派であった中臣鎌足はここで新羅レジスタンス支援に動く(親唐から反唐に舵をきる)。
- 白村江の戦いでは我が国は負けたが、あくまでも勝てる戦いを落とした形。以後、唐軍は新羅の支援なしには朝鮮半島南部の経営は維持できていない現状があった。唐は高句麗は滅ぼすことができても、半島奥深くまで唐陸軍を侵入させるには補給が続かない。(継体持統㉟:郭務悰初回来日の目的 - 上古への情熱)
- 新羅が唐にレジスタンスをすれば唐はいずれ支配を維持できなくなる。
- 唐が本気で極東支配に動けば、どうなるかはわからないが、世界中に戦線を拡大している現状で、資源の乏しい極東地域に力を入れるにはコスパが悪すぎる。良識が働けば、朝鮮半島経営は途中でやめるだろう。
- 鎌足の読みは、『新羅レジスタンスへの肩入れは勝算がある。』
- さらにいうと、新羅レジスタンスを裏でコッソリ支援するのは、唐にバレなければ何の問題もなく、我が国にメリットでしかない。
一貫して反唐派筆頭である大海人皇子は、親唐派から突然変節し反唐派となった中臣鎌足の意見にノリノリだった。
668年高句麗滅亡以降、大海人と鎌足は急接近。(継体持統㊵:大海人皇子のワガママ - 上古への情熱)
