歴史
672年6月29日に大伴吹負は倭京で蜂起したものの手勢は極めて少ない。大和盆地を7月3日までは制圧できたが、7月4日に大津宮の大軍が到来し総崩れとなる。 初出: 継体持統㊼:地形図で見る壬申の乱 - 上古への情熱 672.7.1 大和盆地守備体制の構築 6月29日の蜂…
6月27日未明、高市皇子が伯父の韋那公磐鍬を口封じせず追い返してしまったことから大海人の謀反が露見。以後なし崩し的に事態が推移し2日後の6月29日に大伴吹負が蜂起する。 初出: 継体持統㊼:地形図で見る壬申の乱 - 上古への情熱 大伴吹負蜂起までの大混…
672年6月26日大津宮は朝鮮出兵準備のため、①東国兵力の接収、②倭京武器庫から武器を難波港へ輸送、③出兵反対派の吉備国司と筑紫大宰の暗殺排除を決め、直ちに使者を派遣した。 初出: 継体持統㊼:地形図で見る壬申の乱 - 上古への情熱 大海人の謀反に気付い…
吉野発桑名着、総延長140km。不眠不休で丸二日48時間。女子含む大海人御一行全員が激走。すごすぎる。 初出: 継体持統㊼:地形図で見る壬申の乱 - 上古への情熱 六月二十四日 壬申の乱参加者の系譜紹介で、ずいぶんと間隔があいてしまったが、六月二十四日か…
外国にルーツを持つ諸藩氏族の壬申の乱関係者の内訳は、弓月君後裔の秦氏族が3人、王仁後裔の西文氏族が1人(もしくは2人)、東漢氏族が18人(もしくは17人)、その他9人。加えて明確に外国人とされている百済人が1人。 壬申の乱では亡命百済人高句麗人が活躍し…
壬申功臣の忌部首子人の子孫が織田信長というのも地味に重要。忌部子人の活躍がなかったら織田信長は無かった。 初出及び他の系図:継体持統51:壬申の乱 人名辞典 - 上古への情熱 大隅が繋いだ尾張の名跡 尾張氏は物部氏と並ぶ古代の大豪族であるが、安閑宣…
神別氏族ではやはり大伴氏族の活躍が目立つ。これだけ壬申の乱で活躍しておきながら、徐々に藤原氏に勢力を削がれて衰退してしまうのだから、ちょっと残念。 初出及び他の系図:継体持統51:壬申の乱 人名辞典 - 上古への情熱 大活躍の大伴氏 壬申の乱は倭京…
587年丁未の乱で活躍した皇子と、672年壬申の乱で活躍した王が、親子?? 皇親系譜を眺めると、ちょっと有り得ない親子関係が見える。何故だ? 初出及び他の系図:継体持統51:壬申の乱 人名辞典 - 上古への情熱 飛鳥時代の時空を超えた親子関係 まずは難波…
栗隈王は敏達後裔の筆頭。山部王は舒明の孫。韋那磐鍬は額田女王の兄弟。などなど壬申の乱の登場人物の血縁関係は乱を理解するうえで重要である。今回は皇親の系譜について。 初出及び他の系図:継体持統51:壬申の乱 人名辞典 - 上古への情熱 難波皇子ファ…
壬申の乱登場人物をまとめてみた。壬申の乱の経緯は、登場人物の系図上の位置関係を把握すると見えてくるものも多い。 登場人物全リスト 日本書紀壬申紀に登場する壬申の乱関係者は計110人(話に出てくるだけの倭姫王、石川王を含み、天智天皇を除く。壬申紀…
大海人御一行が六月二十四日から二十五日にかけて吉野から伊賀を経由し鈴鹿へ爆進する。隠密行動かと思いきや、バレるの恐れずギャーギャー騒ぎまくる。もはや暴走族。 初出: 継体持統㊼:地形図で見る壬申の乱 - 上古への情熱 大騒ぎしつつ爆速で東国へ逃亡…
壬申の乱序盤の疑問の一つとして、行動がバレるのに、高坂王に駅鈴を求めたのは何故か?、というのがある。 倭京留守司高坂王の緩い対応 確かに高坂王は倭京留守司という近江朝廷の官吏であるが、高坂王は栗隈王の弟であり、大海人とは敵対していなかったと…
大海人皇子は全権力を捨てて吉野宮に隠遁。壬申の乱直前まで反乱の意思は無かったように見える。反乱スタート吉野宮脱出の瞬間に至っても優柔不断全開のちゃぶ台返しを演じる。あーぁ。 全くヤル気のない大海人皇子 天智天皇の弟という立場にありながら唐と…
壬申の乱は東西を関ヶ原から難波、南北を吉野宮から琵琶湖までで行われた。地形図を使って乱の推移を追うと色々と見えてくる。 ※R8.4.11 誤植修正 国土地理院デジタルサービス 国土地理院は、古くから2万5千分の一地形図など紙による提供を行ってきたが、今…
白村江の戦いは倭軍優勢で必勝体制であったのに負けた。生還率は悲劇の1割台。白村江の戦いから9年。再び中央政府は朝鮮出兵に動く。今度は唐との連合で、白村江の戦い以上に必勝体制と胸を張っているが。 好戦派は大津宮のみ スマホのない飛鳥時代。国際情…
日本書紀壬申紀は『近江朝廷が大海人皇子を滅ぼそうと謀ったので決起した』と案外単純に語っている。しかし、状況からして、近江朝廷が大海人皇子を滅ぼそうとした事実はなさそうだ。 朴井雄君の報告(五月) 五月の時点で、物部一族で大海人皇子の従者であ…
671年10月17日天智天皇は大海人皇子のちの天武天皇を呼び出し最後の兄弟喧嘩が勃発する。 天智病臥時の出来事 日本書紀の巻28壬申紀は、天智4年671年10月17日の天智天皇病臥から始まっている。 この日、大海人と親しい蘇我安麻呂が使者として立ち…
大友皇子は太政大臣=執政王として君臨し外交政策を主導。百済官僚に支えられ唐と手を組み新羅を打倒し、百済復興の名の下、任那復興を企図する。 大友皇子の立場 大友皇子は母が伊勢首出身で皇女ではないことから祭祀王としての大王にはなれない。一方で執…
中臣鎌足主導のもと668年末に一旦は新羅レジスタンス支援を決めたが、669年10月中臣鎌足薨去以降は近江朝廷では親唐派が勢力を盛り返す。中臣鎌足薨去の前後で政策が転換していて鎌足は暗殺された疑いが濃厚である。 668日新羅同盟 668年9月12日高句麗滅亡の…
668年9月高句麗滅亡。直後から新羅は唐に対してレジスタンスを開始する。局地でゲリラ戦を引き起こし、唐から怒られたら唐本国へ謝罪使を派遣するという二枚舌外交を展開する。 こんなハズでは。。。。 668年9月高句麗が滅亡し唐が朝鮮半島の支配を完成させ…
白村江の戦いで負けた我が国は、唐から冊封体制に入るよう要求され、早期の朝貢を促されてきたが、先帝斉明天皇の服喪期間ということで朝貢を先延ばしにしてきた。667年2月に先帝斉明天皇を陵へ葬って服喪期間は終了。朝貢はどうするのか? 冊封を拒否してき…
新羅は唐と組むことで百済と高句麗を排除し生き残ったが、唐は百済や高句麗の領土を新羅に譲ることはなく、さらには征服した百済や高句麗と新羅を同等に扱い、朝鮮半島全域を支配しようとした。 白村江戦後の我が国の対応 白村江の敗戦後、664年の郭務悰来日…
665年10月末には極東四カ国の代表が洛陽に集合し666年正月には平和裡に封禅の儀が挙行された。一気に平和ムードになったかと思いきや、666年6月に淵蓋蘇文薨去、長男の淵男生が唐へ亡命するという大事件が起こる。 高句麗滅亡の経緯 666年正月の唐高宗による…
藤氏家伝貞慧伝では「貞慧の功績により日本と唐の親密な関係が新たなものになり、また、父鎌足の徳行もいよいよ光り輝くものとなった。」とある。 この記述、美辞麗句ではなく、マジだった。 665年日唐外交交渉 取り急ぎ「封禅の儀」使節団を洛陽へ送り出し…
藤氏家伝貞慧(定恵)伝では中臣定恵の唐からの帰国について「突然に唐の高宗皇帝の命令を受けた使者が訪れ、定恵の馬車を用意させ、郭務悰・劉徳高らに命じて、日本に送った。」としている。物語的で史実性が疑われる藤氏家伝ではあるが、この記述をどう読む…
戦後に来日した郭務悰に対し、倭国は唐の国使でなく百済鎮将の私使として扱った。唐側は戦勝国として強硬な態度であっても良さそうであるが、郭務悰側が倭国の対応を受け入れたのは何故か。 唐軍側の現状認識 白村江の戦いで唐軍は快勝したとは言え、日本書…
663年8月28日の白村江の戦いで倭=日本は唐に大敗を喫し、9月7日には百済側の拠点州柔城が落城。9月24日に倭軍と百済遺民が弖礼城(場所未詳)に集まり、25日に離岸し日本へ向かった。 日本書紀には白村江の戦いの我が国の評価に関するような記…
通説では大唐帝国に無謀な戦いを挑んだとされる「白村江の戦い」。ところが、日本書紀は唐軍に対して我が国が劣勢であったとは言っていない。それどころか『余裕で勝てる戦いを落とした』と言っているように見える。 日本書紀の歴史認識 『継体持統㉜:白村…
「白村江の戦い」について、実際に戦った兵力はどの程度であったのか。 日本書紀の記載 日本書紀には百済救援戦争への兵力投入について、いくつか記事がある。661年8月前軍 安曇比羅夫、河辺百枝後軍 阿倍比羅夫、物部熊、守大石(兵力の記載なし)66…
白村江の戦いのような最大級の国難に対し、斉明朝の国力として動員可能な最大軍事力はどの程度であったのだろうか。 隋に見る遠征軍動員可能兵力 参考になるのが、隋による高句麗遠征である。 598年に文帝は30万の軍勢を高句麗に送った。そして612年に煬帝は…