663年8月28日の白村江の戦いで倭=日本は唐に大敗を喫し、9月7日には百済側の拠点州柔城が落城。9月24日に倭軍と百済遺民が弖礼城(場所未詳)に集まり、25日に離岸し日本へ向かった。
日本書紀には白村江の戦いの我が国の評価に関するような記載は全くなく、淡々と戦後が始まる。
郭務悰がやってきた
- 664年5月17日、百済鎮将の劉仁願が郭務悰を派遣してきた。我が国側は、これを4ヶ月以上放置。10月1日になって郭務悰に対応する勅令が出され、中臣鎌足が僧の智祥を遣わして郭務悰に物を賜った。その後12月12日に郭務悰は帰途についた。
- 以上が日本書紀の経緯だが、日本書紀と同時代の資料である海外国記の逸文にはもう少し詳しいことがかかれている。
- 白村江の戦い翌年の664年4月に郭務悰ら30人と百済の禰軍ら100人余りが対馬に来航。9月に津守吉祥、伊吉博徳、智弁らが、筑紫大宰の辞として、唐からの国使ではなく百済鎮将の私使なので入国を認めず、書も朝廷に上げないとした。12月には百済鎮将宛の鎮西筑紫大将軍の牒書を郭務悰に持たせて帰国させた。
- このように海外国記によると、この時の郭務悰の書状は百済鎮将劉仁願のものであり、我が国は正式に受け取ることをせず、上京もさせなかった。
- 一方で筑紫における政務を司っていた筑紫大宰を百済鎮将のカウンターパートと位置付け、筑紫大宰の権限での外交を展開した。
- 唐側は戦勝国として強硬な態度であっても良さそうであるが、郭務悰側が折れた様子が見てとれる。
中臣鎌足の役割
- 日本書紀では10月1日に『中臣内臣が智祥を遣わして郭務悰に物を賜った』とする。
- 中臣内臣すなわち乙巳の変以来の登場となる中臣鎌足である。中臣鎌足は孝徳天皇の寵臣で、親唐親新羅路線の外交官だったと思われる。
- 当時は、白村江の戦いで国軍が事実上消滅してしまい、手持ち兵力ゼロの状態で、外交で凌ぐしかない状態。
- 親唐親新羅人脈を持つ孝徳天皇寵臣の中臣鎌足の出番であった。
- 中臣鎌足は10月1日から郭務悰が離日する12月12日まで3ヶ月間交渉し、なんとか無難に収めたようだ。
中臣鎌足は本当に活躍したのか?
- 以上は日本書紀から想定される中臣鎌足の活躍だが、海外国記逸文には中臣鎌足は出てこない。
- 海外国記では筑紫での直接交渉が書かれているので、左右大臣名が出てこないのと同様に、内臣である中臣鎌足の名前が出てこないと理解できる。即ち、中臣鎌足は倭京に居て、筑紫の交渉に参加していなかったとの解釈である。
- 一方、海外国記には、個人名がない職名の記載がある。「筑紫大宰」と「鎮西筑紫大将軍」である。このどちらか(もしくは両方)が中臣鎌足であった可能性もある。
- 中臣鎌足の関与に関しては、以下の3択。
①日本書紀の潤飾で実際には関与していない。
②倭京で外交を指揮していた。
③筑紫大宰(もしくは大将軍)として筑紫で外交を行っていた。 - この時期の筑紫大宰は阿倍比羅夫の可能性が高く、鎌足が大宰であった可能性は低い。一方で、親唐親新羅派であった中臣鎌足が活躍を始めたというのも納得できる展開である。
- ここは素直に、日本書紀の記載から②中臣鎌足は倭京で外交を指揮していたとするのが妥当と思われる。
