上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

シナリオ:6世紀『磐井の乱が引き起こした二朝並立と蘇我氏の勃興』

系図(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)から見えてくる世界。

今回は継体天皇から始まった6世紀の様子について。

f:id:otoshiki:20231016220250p:image

  1. 502年(紀は506年)に豪族たちの総意で武烈天皇が排除され、503年(紀は507年)に継体天皇が擁立された。継体天皇と二人の皇子(後の安閑天皇宣化天皇)が和珥系皇女に入婿する形で前世紀の血統の統一が目指された。結果はすぐに現れて継体3年(505年:紀は509年)に後の欽明天皇が生まれて、欽明天皇への皇統の継承が確定するかに見えた。
  2. 一方、国際情勢は苛烈化任那の4県(512年)2郡(513年)を百済に割譲するなど、ジリ貧状態であった。北九州勢としては、せっかく仲哀天皇神功皇后に降伏し奈良盆地政権の庇護下に入ったのに、朝鮮半島南部の権益が削られていくのは我慢ならない。とうとう継体21年(523年:紀は527年)に北九州の磐井が反乱をおこす。翌年には将軍物部麁鹿火により鎮圧されたが、厳しい情勢に変わりない。後の安閑天皇任那割譲に大反対するなど、宣化天皇も含めて活躍していた。
  3. このような情勢のもと、継体25年(527年:紀は531年)に継体天皇崩御し、20代前半の欽明天皇が即位することとなったが、若年のため荷が重すぎた。そこで軍事担当として安閑天皇、そして宣化天皇が即位平和的二朝並立状態となった。欽明天皇宣化天皇の娘の石姫を皇后として子も生まれ、539年宣化天皇崩御後に欽明天皇に統一された(欽明元年は540年)。
  4. この統一の時期に、皇嗣を増やすため、妃として白羽の矢が立ったのが、武内宿禰・葛城一族の蘇我堅塩姫と小姉君。この二人は実に子沢山で一気に大勢力になる。これが、584年(紀は585年)敏達天皇崩御時に問題化する。
    敏達崩年は記紀で一年ズレがある。即位の経緯を見ると欽明天皇が4月15日に病床で遺言を残して亡くなり、つぎの年の4月3日に即位している。実は同じ年で死の床についた時点で即位したのではないか。敏達天皇崩御時はすぐに用明天皇が即位している。後継者で揉めた筈なのに、はやすぎないか。やはり古事記の崩年干支が正しく日本書紀は欽明敏達間の二週間弱の重なりを回避するため一年ずらしたようだ。
  5. 欽明元年540年以降、毎年のように朝鮮半島で問題が起こり、562年には新羅により任那が占領されて倭国朝鮮半島の権益を失ってしまう敏達天皇崩御時、国際情勢が引き続き厳しい中、敏達の子、まだ若年の彦人大兄皇子が即位するか、欽明の妃蘇我堅塩姫の子、30代壮年の用明天皇が即位するか。
  6. 雄略天皇以来、天皇家に忠実な軍事貴族である物部氏、国際官僚として躍進した蘇我氏に折れる形で、585年に用明天皇が即位するが、587年には崩御する。
  7. ここで厩戸皇子をはじめ蘇我族群がハツセ部皇子を即位させるべく勢力を結集。対する物部守屋はあくまで彦人大兄の血統を主張「587年丁未の乱」が勃発し、蘇我族群物部守屋を殱滅。ハツセ部皇子が崇峻天皇として即位した。
  8. ハツセの名を持つこの崇峻天皇。同じハツセの名を持つ雄略天皇武烈天皇の意思を継承し天皇専制体制を目指しはじめる
    ※曰く付き天皇の名前はよく似ている。
    仁徳天皇 大サザキ
    雄略天皇 大ハツセ若タケル
    武烈天皇 小ハツセサザキ
    崇峻天皇 ハツセ部若サザキ
  9. 当然、武烈と同様に豪族から反発をくらい、592年崇峻天皇は退位を迫られて殺される天皇の退位手続きは死んでもらう以外になかったからだ。事件に先立つ591年には任那再建のため2万の軍を筑紫に派遣した。警備が手薄な隙を狙われた形だ。
    ※守屋を滅ぼしてまで即位させた結果がこれ。もう二度と同じ過ちは起こさないと蘇我馬子は思ったに違いない。
  10. ここで混乱収拾の名目で、敏達二代目皇后であった推古天皇が即位するという驚愕プランが実行され、豪族たちの支持を得た。結果として長寿となった推古天皇のもと政権は安定した。
    崇峻天皇の失敗で明確化された不文律が、「天皇になる条件は父が皇族であるのと同様に母も皇族であること。蘇我氏も含めて母が豪族娘では無理。皇后は父が皇族であれば良く天皇にもなれる。」というもの。推古天皇としては、この不文律に合致する息子の竹田皇子や尾張皇子に継がせたかっただろうが、いずれも寿命がつき、最後は厩戸皇子と孫の橘大郎女の子に希望を託していたのかもしれない。628年の推古天皇崩御蘇我摩理勢が蘇我氏妃の子の山背大兄王を推したが賛同少なく、当然の如く田村王舒明天皇が即位した。山背大兄王崇峻天皇のように殺されてはたまらないからその気はなかっただろう。蘇我蝦夷にも山背大兄王は眼中になかった。以後、古人大兄王、有馬皇子、大友皇子など、後世に皇位有力候補だったと取り沙汰されているが、母が皇族でないので当時の常識として論外だった。
  11. 一方で蘇我馬子は激動する東アジアでの生き残りをかけて日本の骨格を作り始める。統一中国の隋との交渉には自国の歴史の説明が必要。このため歴史の編纂に着手。万世一系の基本的な歴史の骨格は蘇我馬子によって作られた
    蘇我馬子の目は世界を向いていたと思われる。562年に任那が滅亡し朝鮮半島の拠点を失う一方、577年には北周華北を統一北周を継いだ隋が589年に中国を統一598年には30万の大軍が高句麗に攻めてきた超大国隋の冊封体制に入らず、対等の関係を目指すとは英断か無謀か。587年に物部守屋を葬って以降、遣隋使派遣の600年までの間に、国としての体制を整えるため、歴史を編纂神武にはじまる万世一系のストーリーを組み上げた。なお、この成果は620年に「天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部幷公民等本記」としてまとめられた。

 
崇峻天皇は時代を先取りしすぎた。武烈天皇同様、もう少しうまくやっていれば、その後の歴史は大きく変わったと思うと残念でならない

 

6世紀末に国の舵取りを任された蘇我馬子。隋が国内統一を果たし、周辺国を併合しはじめる中、独立を保つため、国としての骨格を作りはじめた。そのための重要な事業の一つが歴史編纂。卓越した立派な歴史があることを示すため、万世一系であることを喧伝した。筆者も含めた日本古代史ファンは結局のところ馬子が組み上げた万世一系のストーリーの謎解きをしていることになる。