天皇が亡くなると次の天皇が立つというのが自明のようだが、皇后はどうなのか?
皇后の地位は天皇が亡くなると消えるのか?
皇后の地位は消えず終身制ではないのか?
推古天皇の権威の源泉
- 推古天皇の権威の源泉は、敏達天皇の皇后であったからというのは、異論は無いだろう。ということは、推古天皇は敏達天皇の継承者として権力を振るったことになる。
- 皇后の任務として、一般に言われているのが、天皇不在時の天皇の代わりである。では天皇の権威を皇后はどのように継承するのか?
- 推古天皇は敏達天皇の殯を行っている。敏達天皇の権威を継承する儀式と解釈できる。
- 用明天皇即位後も殯は続いていて、穴穂部皇子が敏達天皇の殯に乱入して皇位を奪おうとしたのは有名な話だ。
穴穂部皇子の不思議な行動
- 穴穂部皇子は用明天皇即位後に皇位を狙い敏達天皇の殯に乱入しようとして失敗した。
- 攻撃対象が用明天皇ではなく敏達天皇の皇后=推古天皇である。なぜなのか?
- これは、用明天皇が「権威のある」天皇ではなかったからと解釈できる。用明天皇は後の征夷大将軍のように執政権は持っていたが天皇としての権威は無かった。
- 用明天皇は仏教に積極的であり、旧来の天皇になるのではなく仏教中心の新しい王朝を樹立したのかもしれない。
安閑天皇・宣化天皇・用明天皇・崇峻天皇
- 継体天皇は手白香皇女に婿入りする形で即位し、手白香皇女の子の欽明天皇への皇位継承が既定路線であったとするのが定説である。
- 一方で北九州で磐井の乱が起き、任那割譲がある中で、若年で祭祀を担う欽明天皇と、壮年で執政を担う安閑天皇・宣化天皇が併存していた可能性について「シナリオ:6世紀『磐井の乱が引き起こした二朝並立と蘇我氏の勃興』 - 上古への情熱」で述べた。
- 安閑天皇・宣化天皇は執政権を持つ将軍であり、宣化天皇崩御後は欽明天皇親政に移った。
- 同様に用明天皇・崇峻天皇も執政権を持つ将軍であり、崇峻天皇崩御後は敏達天皇の権威を継承する推古天皇の親政に移ったと解釈できる。
- そもそもこの四人の天皇は天皇扱いではなかったのかもしれない。蘇我馬子が歴史編纂にあたり四人を天皇として採用した可能性がある。(シナリオ:6世紀『磐井の乱が引き起こした二朝並立と蘇我氏の勃興』 - 上古への情熱)
推古天皇の意図は何だったのか
- 血統上は押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の最初の皇后である広姫の子であり、押坂彦人大兄皇子が敏達天皇の殯をしなかったのは不思議である。
- 押坂彦人大兄皇子は、古事記では「日子人太子」、日本書紀の丁未の乱で中臣勝海が皇子を呪う場面では「太子彦人皇子」とあり、「太子=ひつぎのみこ」は継続して押坂彦人大兄皇子であったと思われる。
- 推古天皇は押坂彦人大兄皇子に殯をさせず、自分で敏達天皇から権威を継承したのは何故か。推古天皇は自分の子の竹田皇子や尾張皇子に継承させようと思っていたが、自分が長生きしてしまい、目論見がはずれたということなのだろうか。(下記系図参照)
- 別の視点として、押坂彦人大兄皇子の年齢が関係している可能性もある。押坂彦人大兄皇子は生没年は不明であるものの、皇后広姫の第一子であり、第三子の皇女が伊勢に仕えた年が578年頃であることから、560年代生まれであると考えられる。584か585年の敏達天皇崩御時は20歳前後。即位要件30歳説に立つと推古天皇が代打で立たざるを得なかったという解釈が成り立つ。
- 一旦継承した位が終身であれば、推古天皇は押坂彦人大兄皇子より長生きしたため、押坂彦人大兄皇子の子の田村皇子に継承させただけ、という自然な解釈が成り立つ。
結局、敏達天皇からの権威は、推古天皇から舒明天皇に継承され、皇極天皇に継承された。
皇極天皇は推古天皇と同様の経緯を辿る。すなわち死ぬまで天皇であった。