上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について

前回(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)紹介した世代修正系図では、第四代と第五代の間、第六代と第七代、第九代と第十代の間を分割した。

第七代倭根子(大倭根子・彦フトニ:孝霊天皇)については大直根子(オオタタネコ)と同一人物ではないかとしたが、今回は、第五代ミマツ彦(孝昭天皇)と第十代ミマキ入彦・イニエ(崇神天皇)の出自について。

 

第五代ミマツ彦(孝昭天皇に関して、「ミマツ彦の同母弟」という意味の名を持つミマツ彦イロドが徳島の那賀川に拠点を持つ長国造の祖先とされていて、事代主の孫との伝承があり、ミマツ彦イロドを祀る『御間都比古神社』が徳島の山中に現存する。

 

事代主については出雲の国譲りに関する物語などで大活躍する神であるが、式内神社の分布を見ると、徳島の那賀川周辺にのみあるなど、本来は那賀川の開拓神であったと思われる。

 

また、長髄彦はトミ彦ともよばれ、初瀬川をはさんで三輪山の対岸の鳥見山に拠点を置いていたと解釈できるが、妹の饒速日妃が、事代主の子との伝承がある。この伝承に基づくと、長髄彦は事代主の子となる。

 

那賀川の事代主一族が、何度かにわけて大和盆地へ進出したと考えられ、初回が鳥見山に拠点をおいた長髄彦、二回目がミマツ彦、三回目がミマツ姫を后とするミマキ入彦であったという解釈が可能である。


このような事代主一族の那賀川から大和盆地への進出の背景は、水銀朱(辰砂・丹)利権を考えると、合理的に理解できる。


那賀川上流に弥生時代後期の水銀朱鉱山遺跡、若杉山辰砂採掘遺跡があり、事代主一族はこのような水銀朱の鉱山開発に携わったと思われる。100年代後半から同鉱山が枯渇しはじめたことから、同時期に新たに開発された大和の宇陀の水銀朱の搬出地である大和盆地南部に進出したと考えると合理的である。

 

シナリオとしては以下の通り。

弥生時代後期、事代主が那賀川上流の水銀朱鉱山を開発。

②その後、大物主が、日向出身の饒速日と、那賀川の事代主一族のトミ彦とともに、大和の宇陀の水銀朱鉱山を開発。

③噂を聞きつけた日向のホホデミ(初代神武天皇)が三輪山麓に乗り込んできて、大物主一族と手を結び、饒速日とトミ彦の一族を追い出した。

④しかし物流は引き続き事代主一族が支配していて、ミマツ彦(第五代孝昭天皇)が大和盆地南西の玉手の地に拠点を置き世俗王となり、祭祀王としては玉手見(第三代安寧天皇)の即位を後押し。

⑤最後はミマキ入彦(第十代崇神天皇)が三輪山麓を支配し、祭祀・世俗を統一した王となるが、早々に祭祀は諦めて、倭根子(第七代孝霊天皇)を連れてきて、新たに祭祀王とした。

 

なぜ、初期の天皇が大和盆地南東に拠点を置いたのか?

なぜ、大和盆地南東の勢力が、日本を支配できたのか?

 

威信財としての水銀朱の利権を押さえたから