上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

シナリオ:2世紀『神武東征と纏向の誕生』

四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)

今回は、2世紀の様子について紹介する。

  1. 弥生時代後期阿波の那賀川上流で水銀朱鉱山(現在の若杉山遺跡など)が開発される。事代主一族がこの水銀朱利権を掌握していた。
    ※事代主については出雲の国譲りに関する物語などで大活躍する神であるが、式内神社の分布を見ると、徳島の那賀川周辺にのみあるなど、事代主は本来は那賀川の開拓に関する神であったとみられる。
  2. 100年代後半大物主一族が、奈良盆地南東の泊瀬川上流域宇陀の水銀朱鉱山を開発三輪山山麓に拠点を置く。鉱山の管理はウカシ一族が担当した。
  3. 隼人の威信財加工技術者の饒速日は、いち早くこの情報を聞きつけ、泊瀬川の実力者で三輪山の対岸の鳥見山に拠点をおくトミ彦(長髄彦)と結び水銀朱を独占して威信財の生産をはじめる。息子の天香語山命には、香具山を開発させ、土器用の良質な土を手に入れた。
    饒速日の子として天香語山命がいる。神武は香具山の土で土器を作ったとされるから、香具山は土器用の良質な土が産出したようだ。
    ※トミの長髄彦は、妹で饒速日妃が事代主の子とされる伝承もあることから、那賀川上流の水銀朱鉱山にいた事代主一族の可能性がある。大物主一族が泊瀬川上流で水銀朱を発見した祭、大物主一派が呼んだ可能性もある。
  4. このとき、九州の日向で威信財、隼人盾の加工技術者を率いていたホホデミ(後の神武天皇)は、良質の丹の入手に苦しんでいたが、「一族の饒速日が、ヤマトで美しい土、丹を発見したらしい」と塩土老翁から聞き、日向を出発する。
    ホホデミをはじめとして、四代の天皇は名前が、ミ・ミミとなっている。これは、魏志倭人伝の投馬国の長官の職名で、九州説をとると日向が候補地。ホホデミはやはり本当に九州日向からやってきたと考えるのが自然。
  5. 生駒山麓の河内湖畔に着いたとき、ヤマトの親分であるトミ彦に面会し、自らの隼人盾を見せるがトミ彦に「大したことない」と一蹴され相手にされなかった丹の質が悪かったからだ。
    ※神武東征について記紀では日向から河内湖畔まで、特段の戦闘の記録がなく、スムーズに河内入りしている。途中、妃を迎えるなどのこともないことから、イエズス会の宣教師集団のような形であったと想定できる。日向と言えば威信財は隼人盾。トミ彦との戦闘時に盾を持ち出したとされているが、『トミ彦がホホデミの威信財の品評をしたところ、饒速日の威信財のレベルの方が高かったから、ホホデミ一団を一蹴した』というのが真相だろう。
  6. そこで、ホホデミ紀伊半島の山の中を水銀朱を探して放浪。鉱山毒にやられて倒れたときには、香具山に拠点を置いていた高倉下が心配して助けに来てくれたり、途中で鉱山開発技師である国津神イワオシワクノコをリクルートしたりして、ウカシ一族が経営している宇陀の水銀朱鉱山にたどり着く
    紀伊半島山中を放浪する理由は資源探索だろう。事実、最後にはウカシ一族の鉱山にたどり着く。
    尾張氏先祖の天香語山命関係者(高倉下は天香語山命と同一人物の説がある)のサポートが目を引く。
  7. 鉱山を支配していた兄ウカシは「饒速日さんとトミ彦さんに独占販売契約を行なっているので、取引は無理」とホホデミとの取引を拒否。そこで、ホホデミ弟ウカシを買収し、鉱山を制圧。良質の水銀朱を入手した。兄ウカシを追い払って侵入した鉱山では、人の血色のように美しい水銀朱の砂で満ちていて、とても綺麗だった
    ※「兄ウカシの血で地面が赤く染まる」ではないだろう。水銀朱が綺麗だったと解釈すべき。
  8. 水銀朱は手に入れたが、土器用の土がない。そこで、またまた香具山の一族の助けをかりて、香具山の良質な土を入手。これで数々の素晴らしい威信財を生産し、三輪山周辺の人々に衝撃を与えた
    日本書紀では「香具山の土を使って土器を作った」とあるので、香具山では良質の土が産出していたのだろう。
  9. トミ彦は、「うちには素晴らしい威信財を製作する饒速日さんがいる。」と言うので、ホホデミは、ここぞとばかり、最新の威信財を見せたところ、トミ彦は「確かに凄い。でも今更饒速日さんを裏切れない。」と律儀に言ったが、饒速日自身が勝てないと降参した
    饒速日は威信財の技術力で勝てないと思ったのだろう。
  10. 大物主の子で三輪山の祭祀を行う巫女のイスケ依姫は、威信財加工技術に優れたホホデミを男王として選び、ホホデミは初代天皇となり、三輪山麓に威信財交易都市、纏向が誕生した。180年代のことである。なお、ホホデミ一族は畝傍山に拠点を置いた。
    系図から神武天皇は二世紀前半生まれとなる。纏向が誕生したのは180年代後半とされていて、考古学上の纏向の誕生時期と、文献上の神武の即位時期は、ピッタリと合う。
    神武天皇の時期の系図を見ると、大物主と磯城県主一族は初代から六代までの妃を出している。日向のホホデミ一族が、磯城県主一族に入婿した形。一方、饒速日は絡んで来ない三輪山周辺から追い払われたようだ。
    饒速日の子の天香語山命一族は、葛城の高尾張の地を開拓し、尾張氏となる。一方、饒速日とトミ彦の妹の子、甘美真手は、最終的には石見国物部神社に落ち着く。

軍を率いて紀伊半島をさまよったり、盾で戦ったり、血が多かったり、土器作ったり、レガリアを見せあったり。神武東征の物語は理解しがたい印象ですが、真実はこのようなシナリオだったとすると合理的に理解できる。

ざっくりと言うと、水銀朱利権を押さえた三輪山の一族が威信財の加工技術コンペティションを実施し、神武が勝って饒速日が負けた、ということかと。