上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

世代を修正した系図を作ってみる

前回(上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱)自作の『記紀等準拠系図』を紹介したが、この系図を眺めると、親子継承の間隔や婚姻関係など、いろいろ無理があることに気づく。

〇親子継承が大きく伸びている部分として、①ワチツミ、②物部十市根、③武内宿禰が挙げられる。②③は伊香色女、伊香色男の世代が3世代ずれている。①については、ハエイロネ姉妹の世代が3世代、ワチツミが1〜2世代ずれている。

3代から6代までの天皇は、磯城県主ハエの子の世代の娘を妃としており、この間の天皇を直系で繋ぐのは無理がある。

同世代で活躍したとされる四道将軍の四人の世代がバラついていて、同時期に活躍していたとするのは無理がある。

天皇家系図について、名前上の切れ目がある。初代ホホデミから続く、ミ・ミミと名が付く天皇が4代まで。倭根子と名が付く天皇が7〜9代。


そこで、天皇家系図の、4代5代間(懿徳孝昭間)6代7代間(孝安孝霊間)9代10代間(開化崇神間)の三カ所を分割し、関係人物を含め世代を移動させることを考えた。

 

具体的には、5代6代を、3代4代と同じ世代に、7〜9代を、10〜12代と同じ世代に移動させると、系図上の世代継承が伸びている部分が改善され、不都合が少ない系図が出来上がる

 

出来上がった『世代修正系図』は以下の通り。
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この世代修正系図は、天皇家系図を三箇所で切断し、世代の見直しを行っただけで、他に系図上の繋がりについて操作していない。にも関わらず、色々な点で、修正前の系図の問題点が解消されている。

〇世代修正系図では、5世代125年分の圧縮がされたため、神武は2世紀前半生まれ50才代で纏向遺跡発生時期である西暦180年代となり、神武東征と纏向遺跡発生が時期として一致する。

〇3代から6代までの天皇は、磯城県主ハエの子の世代の娘を妃としており、修正系図のように、3代4代と5代6代が並列していたとすると、系図上の問題がなくなる。

初代〜4代は畝傍山麓に拠点(宮・陵)があり、5代6代は畝傍南西の玉手の地に拠点(宮・陵)を置いている。5代のミマツ彦はどこからか(おそらく阿波の那賀川流域から)やってきて、玉手の地で、玉手の名を持つ3代磯城津彦玉手見と何らかの関係があったと想定できる。

〇世代修正系図のように、10代崇神から12代景行と、7代孝霊から9代開化が並列していたとすると、物部十市根、武内宿禰、若建吉備津彦系図のノビが解消され、自然な系図となる。また崇神天皇時代の四道将軍伝承も、四将軍ほぼ同世代に並ぶことになり、自然な系図となる。

〇7代から9代は、倭根子という名を持つ。崇神天皇時代の大直根子を想起させる。崇神三輪山の祭祀として招聘した大直根子(オオタタネコ)が、7代の大倭根子・彦フトニであったとすると、記紀の伝承と修正系図の辻褄があう。

 

源頼朝以降に幕府と朝廷が共存したように、また、そもそも律令制でも太政官神祇官に明確に区別していたように、上古の時代において世俗王と祭祀王が別に存在していたとしても不思議はないと思うが、どうだろう。