上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

継体持統⑦:漢王の妹、大俣王

淡海三船が「皇極」と名をつけた天皇。まさに皇を極めた天皇であるが、出自が謎めいている。

皇極天皇の父方の系譜

  1. 日本書紀によると皇極天皇父は茅渟王であり祖父は押坂彦人大兄皇子となっている。茅渟王の母に関する記載はない
  2. 古事記では押坂彦人太子の子の智奴王の母「漢王の妹、大俣王」としていて、大俣王の父母が誰か書かれていない。

漢王の妹、大俣王

  1. 大俣王については同名の大俣王が敏達天皇妃の春日老女子の第四子にいるが、敏達天皇の子に漢王の名がない
  2. 春日老女子の第四子の大俣王の同母兄としては難波王、春日王がいて、いずれかの別名が漢王であれば当該大俣王が智奴王の母との解釈も可能となる。
  3. また後世の資料には根拠不明ではあるが大俣王を敏達天皇の皇女としているものもあって、古来より敏達天皇の皇女だろうという認識もあるようだ。
  4. 一方で、古事記の場合、異母妹を娶る場合「娶庶妹〇〇王」のような記載で、庶妹=異母妹であることを明記しているが、大俣王の場合、「娶漢王妹大俣王」となっていて庶妹と書いていない

敏達天皇の子、大派皇子

  1. 古事記の春日老女子の第四子の大俣王について、日本書紀では第四子大派皇子として、明確に男性として出てくる。
  2. 事績もいくつか記録されており、636年には官吏の勤怠管理について蘇我蝦夷に意見している他、642年の舒明天皇葬儀に際しては巨勢徳太を代理に立てる記録がある。
  3. このように、日本書紀は大派皇子を皇子として扱っていて皇女の扱いではない

茅渟王の母の年齢の推測

  1. 一般に、敏達天皇の生年が538年、皇極天皇の生年が594年とされている。茅渟王の母が敏達天皇の皇女とすると、この56年間に二世代を入れる必要がある。
  2. 15歳程度で第一子が生まれるとして、最も遅い(若い)推測をすると、茅渟王が570年代後半、茅渟王の母が560年頃となる。
  3. 仮に日本書紀の大派皇子が同じ560年頃の生まれだとすると、上記636年の記事は70代中盤の事績となり、有り得なくはないが、少々歳が行き過ぎている。
  4. 茅渟王の母の大俣王と、日本書紀の636年642年に出てくる大派皇子とは別人と考えたほうが良さそうである。

もう一人の大俣王

  1. 春日老女子の第一子は難波王であり橘諸兄の曽祖父であるが、難波王と橘諸兄の間は一世代分足りない印象がある。
    ①難波王:生年不詳、弟の春日王とともに
    587年丁未の乱に参加
    栗隈王:生年不詳、672年壬申の乱頃筑紫太宰
    ③美奴王:生年不詳
    橘諸兄:684年生
  2. 難波王敏達天皇のほぼ第一子だと思われ、550年代後半生まれ
  3. 栗隈王については壬申の乱時現役であることから610年代以降生まれと推測できる。60歳程度離れていて不自然である。
  4. 室町時代の本朝皇胤紹運録や尊卑分脈では、難波王と栗隈王の間に大俣王を入れていて根拠不明だが世代数としては自然な形となっている。
  5. この場合、難波王の子の大俣王の生年は580年代程度となり、日本書紀の大派皇子の事績の記載に親和的年齢となる。

茅渟王皇嗣筆頭!?

  1. 大俣王が敏達皇女であったとすると、茅渟王は血統としては舒明天皇と差がなく皇位継承順位の筆頭であった可能性が高い。
  2. 推古天皇崩御時の事績がないことから、628年より前に亡くなったと想像できる。
  3. 茅渟王の子、皇極天皇孝徳天皇天皇となれたのは父茅渟王皇位継承順位筆頭であったとすると理解しやすい
  4. しかしながら、日本書紀に大俣「皇女」の記載がないことと、茅渟王の地位が高かったとするような記載がないことの説明が難しい。

結局のところ『漢王の妹、大俣王』とは?

もっともらしい解釈は以下の通り。

  1. 難波王の妹の大俣王と、難波王の子の大俣王の二人の大俣王がいた。
  2. 漢王は難波王の別名(春日王の別名の可能性も)。
  3. 茅渟王の母は難波王の妹の方であったので「漢王の妹、大俣王」と書かれた
  4. 茅渟王舒明天皇と血統に差がなく、皇位継承順位筆頭であったが、推古天皇崩御前に亡くなった。
  5. 日本書紀の大派皇子の事績は難波王の子の大俣王のもの。

この説の苦しい点は以下の通り。

  1. 日本書紀は春日老女子の第四子を大派皇子として男扱いしている。皇極天皇の祖母の記載を間違うだろうか?
  2. 茅渟王の地位が高かったような記載はない。

茅渟王の地位については一般に「マイナー皇族」と見られがちだが、系図上、茅渟王は田村皇子=舒明天皇と同等以上の地位であったと解釈するのが皇極・孝徳天皇が即位した事実もあり自然である。