穴穂部皇子の行動を見る限り、敏達皇后である推古天皇が天皇としての権威をずっと握っていて、用明天皇は天皇としては権威のない執政権を持つ王であったように見える。
革新派:用明天皇即位の背景
- 500年代に入り朝鮮半島権益を巡る外交問題が活発化。田舎者国家である倭国にとって外国文化の受容は外交戦略上重要であったはずで、仏教は500年代の外交官にとって必須の教養になっていたと思われる。
- 最先端の文化に染まった人々が、古来の習俗に反抗するのは世の常であり、用明天皇も即位前に神道に挑戦するようなトラブルを起こしたようだ。
※敏達7年に伊勢神宮に仕えさせた敏達天皇皇女の菟道皇女を池辺皇子が犯す事件があり、池辺皇子が用明天皇のことであるとする説がある。 - 日本書紀でも用明天皇は仏教を重視した最初の天皇とされている。用明天皇は仏教中心の外国と渡り合える最新の文化を身につけた王朝を開こうとした革新派だったと考えられる。
推古天皇と物部氏:守旧派のイザコザ
- このような革新派の動きに対し、守旧派としては旧来の権威に基づく強力な王権を確立したいと思ったはずだ。
- 本来、敏達天皇の殯により天皇の権威を継承した推古天皇を守旧派である物部氏はサポートする立場であるはず。
- だが、物部氏は女帝では厳しい外交に対応出来ないと考えたのか。穴穂部皇子をサポートし推古天皇からの皇位簒奪に加担した。というか、立場上、本当のところは、物部氏が穴穂部皇子をけしかけたのかもしれない。
- 旧来の権威を権力基盤とする推古天皇と革新派の蘇我氏は本質的に相容れない関係であったはずだが、敵の敵は味方ということか共同戦線を張ることとなった。
用明天皇の即位
- 当時は天然痘パンデミックであったようで、天然痘パンデミック対策として蘇我馬子が仏教の導入を推進していた。
- 仏教導入に動いた人物として用明天皇の名は出てこないが、池辺直の名が見られ、何らかの形で即位前の用明天皇が関わっていた可能性が高い。というか、日本書紀の蘇我馬子の実績は用明天皇のものである可能性もある。
- 用明天皇は即位前からある程度の執政権を行使していた可能性が高い。
- 仏教反対派の敏達天皇が天然痘に倒れたのち、皇位は殯により推古天皇に移される儀式が進む中、用明天皇が中心となって勝手に仏教政策を進めた。新しい仏教王朝の建設に燃えていた用明天皇に、果たして旧来の地位である天皇位に就くという意思があったかどうか。
蘇我氏と物部氏の壮絶なバトルが繰り広げられる中、用明天皇は「聖徳太子の父」程度の影が薄い存在になっているが、旧来の神道の権威から独立し、中国から最新の技術を取り入れた仏教王朝を建設しようとした偉大な王であった。在位短く天然痘に倒れたのが残念でならない。