関門海峡を制圧する前の大和盆地の政権は、朝鮮半島との交易を日本海経由の丹波―琵琶湖―山代―大和の経路に頼っていた。関門海峡制圧に失敗した景行天皇は、晩年に琵琶湖経営に乗り出す。琵琶湖を支配する息長王家との摩擦が表面化する。
景行朝は関門海峡制圧できず
- 景行天皇による九州巡幸の経路を見ると、中部から南部の九州を巡っているものの、関門海峡と九州北岸には近づいていない。
- 関門海峡は言うまでもなく大陸交易の要所であり、景行天皇の九州巡幸伝承は、朝鮮半島への交易路確保のため関門海峡から北九州の制圧を企図したが失敗したと解釈できる。
景行天皇近江遷都の意味
- 晩年には方針転換し、大和盆地から琵琶湖西岸の大津に拠点を移し琵琶湖水運の支配を強めるような行動にでた。
- この後について、記紀は、ただ単に成務天皇、仲哀天皇と代替わりしたとだけあって、何も語らない。
- しかし、琵琶湖の東岸には息長宿禰王と婿の仲哀天皇がいて、西岸は景行天皇を継いだ成務天皇がいたとなると、何かあったと見るべきだろう。
- 成務天皇で血が絶えていることから、琵琶湖決戦で息長宿禰王側が成務天皇を破って勝利し仲哀天皇が即位したと考えるのが自然である。
- 日本書紀には、仲哀天皇は、即位時に、越に関係していた異母弟を誅殺し、若狭の気比宮に入ったとしている。
- 気比宮には美濃系残党の五百城入彦の子のホムタ真若王がいたとみられる。
- 仲哀天皇は美濃系皇子を排除するとともに後継者争いにも勝った形で即位したと解釈できる。
成務から仲哀へ交代した年代
- このように、成務天皇は天寿を全うしたとはあまり考えられないが、崩年は古事記の崩年干支を信じれば355年であり、この年に琵琶湖決戦があったとするのが自然である。その後、仲哀天皇が後継者争いに勝ち残り即位した年は不明だが、北九州での崩年は古事記の崩年干支から362年であり、仲哀天皇による関門海峡制圧は前年の361年となる。
仲哀天皇は362年に北九州制圧半ばで斃れる。普通に考えれば、北九州側のテロに斃れたのであろうが、暗殺された可能性も否定できない。
仲哀天皇崩御により、次のステージとして、息長系神功皇后・応神天皇と播磨系忍熊王の間の抗争に移行することとなる。
このように仲哀天皇崩御により内乱状態に移行したことから、朝鮮半島南部の倭国からのプレッシャーが一時的に後退。倭国は朝鮮半島経営に出遅れてしまう。もう少し仲哀天皇が長生きしていたら、その後の歴史は大きく変わっていただろう。