上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

継体持統⑥:押坂彦人大兄皇子の微妙な立ち位置

敏達天皇の正嫡である押坂彦人大兄皇子系図を眺めると政治的立ち位置が見えてくる。

太子彦人皇

  1. 日本書紀には丁未の乱の直前に押坂彦人大兄皇子の記事が出てくる。
  2. 587年4月2日に用明天皇天然痘に罹患し死の床についたことで紛争が勃発。「群臣が大連を陥れようとしている」との噂から物部大連守屋が本拠地の河内国に避難物部氏側の中臣勝海は『太子彦人皇子』と竹田皇子を呪詛するも、事の成り難きを知り、人皇子に帰順するが、人皇子の舎人に斬られた
  3. このように、日本書紀は、押坂彦人大兄皇子物部氏側の中臣勝海を斬っており、物部陣営には属さず、推古天皇寄りの立場に居たと記している。

系図からわかること

事績については上記しかないが、系図を見ると、色々な背景が見えてくる。

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  1. 押坂彦人大兄皇子は3人の異母妹を妃として、敏達天皇の血統を濃く受け継ぐような婚姻をしていたことになる。
  2. 兄弟姉妹婚の事例は上古においてもそれほど多くはない
    崇神天皇ーミマツ姫(一説に同父母婚)
    仁徳天皇ー八田皇女(同父異母婚)
    木梨軽皇子ー軽大娘(同父母婚)
    敏達天皇推古天皇(同父異母婚)
    用明天皇穴穂部間人皇女(同父異母婚)
    押坂彦人大兄皇子ー糠手姫他3人(同父異母婚3人)
    山背大兄皇子ー舂米女王(同父異母婚)
    3人の姉妹を妻とした押坂彦人大兄皇子の異例さが際立っている。
  3. このように系譜上からは押坂彦人大兄皇子はおそらく祭祀的な動機から敏達天皇の血統の保全に全力を尽くしていたと解釈できる。
  4. 推古天皇の皇女5人のうち、長女が厩戸皇子妃、二女・五女が押坂彦人大兄皇子妃、四女が田村皇子妃となっている。推古天皇蘇我系のイメージがあるが、系図を見る限りは敏達系皇族の一人として敏達系の血統の保全に全力で貢献しているように見える。
  5. 推古天皇の長女と広姫皇后の末娘は名前が同じで、伝承が混乱している様子が見られる。推古天皇は前皇后の末子を引き取った可能性があり、引き取った義理の娘が長女として記録されたため伝承が混乱した可能性がある。
  6. この推古天皇の長女=広姫皇后の末娘は、用明天皇とみられる池辺皇子とトラブルを起こした菟道皇女と同一である可能性が高い。菟道皇女が用明天皇の事実上の妃であったとすると、用明第一皇子である田目皇子が用明皇后を妃としたのと同様、用明第二皇子である厩戸皇子が事実上の用明妃であった菟道皇女を妃とした可能性がある。
  7. 上記の通り推古天皇は義理の子も養育していた可能性があるとすると、推古天皇の末子である桜井之玄王は、田村皇子=舒明天皇の叔母である桜井皇女と同一人物で、推古天皇の義理の娘である可能性も十分にあり得る。であるとすると、桜井皇女の姉妹で、舒明天皇の母、糠手姫皇女も推古天皇に養育されていた可能性がある。
  8. このように推古天皇敏達天皇一族を束ねていて、押坂彦人大兄皇子もその子の田村皇子=舒明天皇推古天皇の庇護下にあった可能性がある

以上のように、系図上は推古天皇は敏達系皇族を束ねる存在となっていて、太子=ひつぎのみこである押坂彦人大兄皇子推古天皇の子を含む異母妹を娶ることで敏達天皇の血統の保全に勤めていたようだ。

従って、推古天皇崩御前に後継者として田村皇子=舒明天皇を指名したのも当時としては当然であったと解釈できる。