上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

継体持統⑤:聖徳太子が開いた道

用明天皇聖徳太子の違いは何か?聖徳太子はなぜ『用明天皇のような天皇』の扱いをされなかったのか?

用明天皇第一皇子田目皇子

  1. 聖徳太子厩戸皇子用明天皇の第一皇子ではない。第一皇子は蘇我石寸名の子で田目皇子である。
  2. この田目皇子は、父の皇后である穴穂部間人皇后を娶った。これは政治的には田目皇子用明天皇の後継を狙ったものと解釈できる。
  3. 父の正妻を娶って後継となるのは珍しいことではなく、「鎌倉殿の13人」でも奥州藤原氏で秀衡の長男国衡が秀衡の正妻を娶って、秀衡後継体制の安泰を図ろうとしていた。
  4. 田目皇子は父の皇后との結婚に成功し、権威を得たものの、崇峻天皇との後継争いには敗れたようだ。
  5. なお田目皇子の子は皇極天皇に関係している可能性があるから興味深い。

崇峻天皇が消された背景

  1. 崇峻天皇軍事貴族である物部氏を587年丁未の乱で滅ぼして即位した。
  2. 崇峻天皇倭国の執政王として外国からの圧力に対し即位直後から極度の緊張状態に晒されたと見られる。589年には隋が中国統一。北東アジアに緊張が走る。実際に598年には隋の文帝が30万の大軍を高句麗に送っている。
  3. 速やかな国防のための軍の動員が必要となるが、軍の大動員は豪族に大きな負担をかける。その中、崇峻天皇は591年に2万の大軍を用意した。
  4. 崇峻天皇は大伴氏の力で対応したようだ。丁未の乱軍事貴族物部氏を滅ぼしてしまった以上、頼るのは同じ軍事貴族の大伴氏だったのだろう。
  5. だが大伴氏は金村の引退以降勢力の衰えが著しい。591年に2万の軍勢を九州に送ったのち、592年崇峻天皇は在京勢力にあっさり暗殺されてしまう大伴氏の影響力の衰弱を象徴する事件と言える。

592年の大政奉還

  1. 崇峻天皇暗殺直後、百寮は天皇の璽印を敏達皇后にたてまつり推古天皇が誕生する。
  2. これまでは執政能力を持つ有力皇族に璽印を奉っていたが、ここで祭祀を嗣ぐ敏達皇后に執政権を戻した。飛鳥時代大政奉還である。
  3. 名目上は推古天皇に権力を集中させたうえで、有力皇族に執政権を委ねる形の政治体制とした形だ。
  4. 実際に即座に執政権は厩戸皇子聖徳太子に委ねられる。明治政府のような新政権を聖徳太子が構築した形だ。
  5. といいつつ、実際のところ聖徳太子崇峻天皇の後継の座に収まったに過ぎないとも言える。

聖徳太子の執政体制誕生の背景

  1. このようになった背景としては、色々考えられる。
    敏達天皇を陵に葬り一連の殯の儀式が完了し敏達皇后=推古天皇が執政可能となったこと。
    丁未の乱、大軍の筑紫派遣、崇峻天皇暗殺で群臣は動揺し新たな執政王の誕生を望まなかったこと。
    中国の律令制度を学び、祭祀王から権力を委ねられる職を置くという政治的仕組みが統治上有効であると知ったこと。
  2. 上記の③が重要で、仏教とともに律令制度のような最新の政治技術を導入しはじめたのが、厩戸皇子用明天皇と違って天皇とされないような地位についた背景ではないかと考えられる。

結局、厩戸皇子聖徳太子天皇とされるような地位には就かずに執政権を行使した。足利義満が明に対して国王として振舞ったように、外国からは聖徳太子が国王に見えたので、隋書では聖徳太子とみられる人物が国王として記録された。