上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

シナリオ:3世紀中頃『統一王崇神天皇の登場』

四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)

今回は西暦200年代の様子を紹介する。

  1. 第四代スキツミ(懿徳天皇)でホホデミ神武天皇)から続く祭祀王家は途絶える。スキツミの親族、ワチツミは淡路に拠点を置き、吉備勢力と関係を深める
  2. 世俗王第二代の倭足彦(記紀では第六代孝安天皇)の代替わりとして、ミマキ入彦が纏向を制圧し、世俗祭祀の統一王(記紀では第十代崇神天皇となる。250年ごろのことである。
    ※ミマキ入彦の出自であるが、皇后のミマキ入姫が、又の名をミマツ姫とも言われ、ミマキとミマツはほぼ同義とすると、ミマキ入彦はミマツ彦と同じ事代主系の出自と思われる。初めての世俗祭祀統一王であるので『はつくにしらししミマキ天皇とされた。
  3. ところが、即位後間も無く疫病が流行り祭祀王は別に立てる必要があると判断ワチツミの娘二人を娶っていた倭根子(大倭根子・彦フトニ)を前祭祀王の後継者として招聘し、初代倭根子王(紀記では第七代孝霊天皇)として即位させた。250年ごろのことである。
    崇神天皇は祭祀をも掌握しようとしたが、祭祀は結局手に負えなかった様子が記紀では表現されている三輪山についてはオオタタネコ(大直根子)にまかせたが、大直根子=倭根子とすれば、第七代〜第九代の天皇の名であり、二王並立がしばらく続くことになる。
  4. この大倭根子が、吉備の最新技術を使って、ワチツミの子で妃で巫女であるハエイロネ又の名を倭国アレ姫と、その娘の倭トトヒモモソ姫(伝、箸墓古墳被葬者)と共に前方後円墳を中心とする祭祀文化を完成させた。
  5. ミマキ入彦は即位後、河内のハニヤス王の反乱を鎮圧し、四道将軍を四方に派遣。西は吉備、丹波と東は会津まで制圧した。
    四道将軍派遣は軍による征服というよりは、日本書紀に「教を受けざる者は伐て」とあるように、前方後円墳をはじめとする祭祀文化の布教のための宣教師集団の派遣に近いと思われる。
    ※四国と紀伊半島は制圧伝承がないが、鉱物資源開発集団の事代主一族の勢力圏と考えられ、そもそもの勢力圏であったと思われる。即ち、この時点での勢力圏外は出雲から西の日本海沿岸、関門海峡と九州ということになる。
  6. 纏向が安定したところで、ミマキ入彦は出雲制圧に乗り出す。義弟で天香語山の子孫である尾張氏の建諸隅を派遣して出雲を制圧。出雲の技術を纏向に導入した。200年代後半のことである。
    ※纏向では、考古学上、吉備と出雲の技術で前方後円墳文化が完成した様子が見られる。これは、吉備と関係が深い第七代大倭根子彦フトニによる吉備技術の導入と、ミマキ入彦による出雲制圧によるものと解釈できる。
  7. 出雲制圧と同時期に、石見国物部神社にいた饒速日の子の甘美真手の子孫畿内に復帰する。淀川支流で生駒山から流れる天野川流域を拠点とし、内色雄、内色女の兄妹、伊香色雄、伊香色女の兄妹が出た。この流れから物部氏武内宿禰、葛城氏、蘇我氏が出てくる
  8. 第二代倭根子(200年代後半即位記紀第八代大倭根子・彦クニクル、孝元天皇)は内色女と伊香色女を娶り、第三代倭根子(300年頃即位記紀第九代若倭根子・彦オオヒヒ、開化天皇)は継母である伊香色女を娶り、ワチツミから受け継ぐ磯城県主ハエの血と、饒速日の子、真手の血を濃く受け継いで祭祀性を補完した。

 
崇神天皇は初の世俗祭祀統一王となったが、早々に祭祀を諦めた様子が記紀では描かれている。代わりに招聘したのがオオタタネコ(大直根子)。大直根子=倭根子とすると、第七代〜第九代の天皇である。第七代の倭根子は、ワチツミの二人の娘を妃として、ワチツミは淡路に拠点があって、瀬戸内海西部勢力、吉備のバックアップがあったと想定できる。崇神天皇時代に出雲制圧説話があり、崇神天皇時代に、吉備と出雲の技術が導入され、前方後円墳文化が完成したと考えると、考古学上の事実との辻褄が合う。