上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

シナリオ:3世紀後半から4世紀前半『垂仁天皇、景行天皇、ヤマトタケル』

四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)

今回は西暦200年代後半から300年代前半の様子を紹介する。

  1. 彦坐王は初代世俗王ミマツ彦(孝昭天皇)の子の天足彦の子孫で、和珥氏一族。子の丹波道主王とともに四道将軍の派遣で丹波方面で活躍して、奈良盆地北部から淀川・琵琶湖・丹波を支配していた。
  2. 第十代崇神天皇ミマキ入彦五十瓊殖(イニエ)の代替わりとして、第十一代垂仁天皇イクメ入彦五十狭茅(イサチ)が200年代後半に即位
  3. 垂仁天皇彦坐王家に介入彦坐王の子の佐保彦を滅ぼした。なお、妹で妃の佐保姫の子のホムツ別には出雲から越の日本海沿岸を支配させた
  4. さらに、彦坐王の子で丹波に勢力を築いた丹波道主王家にも介入し、同王の4人の娘を後宮に入れ、ヒバス姫は佐保姫にかわる皇后とし、景行天皇、五十瓊敷(イニシキ)入彦を産んだ
  5. さらに、山代県主家にも介入二人の娘を後宮に入れ、弟カリハタトベ(又の名をカニハタトベ)からは、ヤマトタケルの妃で仲哀天皇の母となるフタジ入姫継体天皇の母、振姫につながるイワツク別を産んだ。
    ※以上のように、垂仁天皇は婚姻政策で北方を直轄地化していった。
  6. 崇神天皇五十瓊殖(イニエ)垂仁天皇五十狭茅(イサチ)と続いて後継者は五十瓊敷(イニシキ)とされた。一方、後に景行天皇となるオシロは、もともと皇位継承権はなく播磨国に出された皇族だった。播磨の地で四道将軍派遣時に活躍したワチツミの血を引く若彦建吉備津彦(若建彦)に婿入り、稲日大娘、稲日若娘を妃として、播磨吉備を支配下におく
    オシロ別の「別」は、日本書紀にも、「地方にワケられた王やその末裔」とあるとおり、オシロ別は皇位継承者とみなされていなかった。「五十」の名を持つ五十瓊敷(イニシキ)が本来の継承者と判断するのが自然。
  7. 五十狭茅(イサチ)の死後、播磨王オシロ別は大和盆地に帰還し、五十瓊敷(イニシキ)を追放して纏向に入り崇神以前の称号、足彦を継承し、大足彦として即位した。300年ごろのことである。五十瓊敷は自らの石上神社の祭祀を物部十市根に引き継ぎ、美濃の地で果てた。
  8. 大足彦(景行天皇)は若建彦に婿入りし自らがワチツミ一族の後継者となることで、若倭根子(開化天皇)の祭祀を否定し、自分の息子、若倭根子皇子に祭祀を継がせ、最終的には、倭根子の祭祀を停止して世俗祭祀統一王となった。
    ※大足彦の子に若倭根子皇子がいる。事績は伝わらないが、倭根子の名を継いだと思われる。以後、倭根子が続かないことから、この代で滅ぼされたと見られる。
  9. 大足彦(景行天皇)は九州南半分から東北南部までの制圧を完了したが、関門海峡・北九州だけは支配域の外であった。
  10. 治世半ばで後継者争いが勃発。崇神天皇の子で美濃の八坂入彦の血を引く若足彦(成務天皇)及び五百城(イホキ=伊吹)入彦と、ワチツミの血を引く播磨王時代の子ヤマトタケルが反発
  11. 五百城入彦は八坂の美濃の権益を継承し、さらには尾張氏と婚姻を結び一大勢力となるヤマトタケル伊吹山麓・関ヶ原で五百城入彦と交戦するが、尾張氏に裏切られ、琵琶湖・米原の息長宿禰王も五百城入彦側にまわり、敗れて命を落とした
    ヤマトタケル伊吹山に出かける前に、草薙の剣を置いていったところに尾張氏の裏切りを垣間見ることができる。
  12. 大足彦(景行天皇)は若狭出雲から朝鮮半島日本海物流を支配するため、琵琶湖の直轄化を目指し、拠点を大津に移動し後継者を若足彦(成務天皇)と定めた五百城入彦には、ホムツ別の後継として、日本海沿岸を支配させ、息子はホムタ真若王と名乗る
  13. 一方、米原息長宿禰王はヤマトタケルの遺児、足仲彦(仲哀天皇)を婿として迎え息長足姫(神功皇后)の夫とした。
  14. 大足彦(景行天皇)は大津移動後まもなく他界し、若足彦(成務天皇)も若死したため、最終的に息長宿禰王の援助で足仲彦(仲哀天皇)が即位した350年ごろのことである。

景行天皇の80人ぐらいの子供のうち、五百城入彦、若足彦、ヤマトタケルだけは地方に封じられなかったとされる。

五百城入彦の拠点跡と見られる「伊富岐神社」が伊吹山麓・関ヶ原に現存する。五百城入彦の事績は伝わらないが、名前が伊吹であること、子がホムタ真若王であることから、おおむねこのようなシナリオであったと考えられる。

史上最初の関ヶ原の戦いは300年代前半にヤマトタケルと五百城(伊吹)入彦の間で戦われ、東軍(ヤマトタケル)が負けた唯一の事例となった。672年と1600年の関ヶ原の戦いは、攻める東軍が守る西軍を破ったのだが。