上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

シナリオ:4世紀後半『神功皇后から仁徳天皇まで』

系図から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)

今回は、西暦300年代後半から400年まで

  1. 足仲彦即位(仲哀天皇350年頃)時点で、関門海峡・北九州以外は勢力下に置いていた。また朝鮮半島では新羅百済が国として形成されはじめて、皇后の息長足姫(神功皇后)は新羅の権益(母方が新羅王子天日槍の子孫)を有していたことから、関門海峡、北九州、新羅の制圧を企図した。
  2. そこで若狭水軍を息長足姫に束ねさせ、紀伊水軍を武内宿禰に束ねさせて、瀬戸内海と日本海から関門海峡を挟み討ちにし念願の関門海峡制圧に成功した。
  3. ここで不測の事態が起こる。足仲彦(仲哀天皇)が急死してしまったのだ。この時点で足仲彦の正統な王位継承者は播磨の香坂王・忍熊王であり、息長足姫(神功皇后)の子、後の応神天皇ではない。
  4. そこで息長足姫は武内宿禰と結託天皇の死を秘匿とし、北九州制圧後朝鮮半島まで行き現地で徴兵した。
    奈良盆地の政権が北九州を制圧したのは初めて。さらに朝鮮半島に権益を築いたのもこの三韓征伐が初めて
  5. 朝鮮半島での徴兵を加え、大軍で畿内へ帰還。熊王は破れて一族は越の劔神社まで落ち延びた
    福井県山間部に越の国二宮であるところの劔神社があり祭神は忍熊王である。その神官家として織田家が生まれ、織田信長に繋がる。織田信長も忍熊王の子孫を名乗れば、朝敵になるが、かっこよかったのにと思うし、本当に忍熊王の血を引いている可能性もある
  6. 播磨の忍熊王残党勢力を駆逐して、日本統一を成し遂げたが、子の応神天皇には血統として権威が全くない。そこで、ホムツ別の名を受け継ぎ権威を高めることを企図する。ホムツ別を祀る気比宮に行きホムタ真若王の3人の娘を迎えて婿入りし、自分の真名をホムツ別と交換し、ホムツ別=ホムタ別となり即位した。300年代後半のことである。
    ※ホムツ別の名を継ぎホムタ真若王に婿入りすることは、彦坐王・ホムツ別から続く日本海沿岸の権益と、八坂入彦・五百城入彦の美濃尾張の権益の継承となった。
    ※上宮聖徳法王帝説では応神天皇のことをホムツ別王としており、ホムツ別とホムタ別は同義。
  7. 応神天皇は広すぎる国の分割統治を企図し、拠点を難波後継者を大山守として紀伊水軍・瀬戸内海を支配させ、後の仁徳天皇には気比宮において若狭水軍・日本海沿岸宇治若郎子には大和において東国を支配させた。応神天皇は394年に没した
    古事記に記載されている崩年干支によると、応神天皇の没年は394年。
    関門海峡を制圧したことで瀬戸内海経由で物が流れるようになり、河内が飛躍的に発展することとなった。
  8. 後継者に選ばれなかった後の仁徳天皇は権威を高めるため、気比宮で名前を交換応神天皇の真名であるサザキを手に入れて、大山守を滅ぼして即位した。400年頃のことである。
    応神天皇仁徳天皇の名は、最後はそれぞれホムタ別、サザキであるが、両天皇とも途中で名を交換しているため本来の名がよくわからない神功皇后が帰還する際、応神は亡くなり言わば祟り神になったと偽って喪船を前面に出して、忍熊王と戦っている。応神の真名は陵=サザキだったのではないか。一方、仁徳は、食の国=気比宮、日本海沿岸に封じられた。名前が日本海のイザサ小浜を冠するイザサ別だったのではないか。そう推測し、応神の真名サザキは仁徳に行き仁徳の真名イザサが気比大神に残ったとした。
    仁徳天皇はホムタ真若王の次女の子供。大山守はホムタ真若王の具体名の残る長女高城入姫の子。宇治若郎子は和珥氏の娘。やっぱり大山守が正統
    大山古墳は本来は大山守のために作ったか。仁徳自身は当時、大山守の名を継承した可能性もある。
    宇治若郎子は、宇治=ウチ=内とすると、武内宿禰一族の若旦那とも考えられ、葛城氏支配地域である大和をまかされた。

足仲彦、漢風諡号でも仲哀と、冴えない名前であるが、関門海峡を初制圧し北九州を押さえ朝鮮半島まで進出する勢いであったとは、上古の時代の織田信長。おそらくは北九州勢に暗殺されたと思われるが、もう少し長生きしていれば、朝鮮半島も含めた歴史は大きく変わっていただろう。

仲哀天皇は上古史上特筆すべき大英雄である。