7世紀の東アジアは、統一中国の隋・唐に飲み込まれるか生き残るかのサバイバルレースが展開された。驚愕のペースで変化する国際情勢に翻弄され、極東地域では、百済・高句麗が滅び、新羅・日本が生き残った。
系図は『世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』を参照。
- 六世紀末の589年には隋が中国を統一。598年には30万もの軍を高句麗に派遣してきた。辺境諸国に一気に緊張が走る。
- 高句麗・百済・新羅は、隋唐の冊封体制に入るという、常識的外交を行った。一方、「倭の五王」の後、対等の関係を目指していた倭国は強大な隋唐に対してもメゲずに自らを貫き通す。600年に隋に対して様子見の遣使をし、607年に小野妹子を団長に正式に外交団を派遣。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」とタンカを切った。受けた隋も、高句麗百済新羅もビックリしただろう。608年に帰朝の際、裴世清も小野妹子も口裏合わせて隋からの辛辣な返書を揉み消した。
- ただ、隋は倭国などに構っている暇はなかった。北の大国である東突厥と高句麗が連携して侵略行為を繰り返すことから、611年から614年にかけて100万を超える軍勢で高句麗出兵を行う。高句麗はなんとか凌ぎ、一方で、隋は滅んでしまう。618年隋滅亡時に、高句麗が大いに喜んでいた様子が日本書紀に残されている。隋のプレッシャーが消えた瞬間に、622年厩戸皇子、626年蘇我馬子、628年推古天皇が歴史の舞台から去った。
- ところが、偉大なる皇帝、太宗が626年に玄武門の変でクーデターを起こして政権を握ると、唐は急速に強大化する。630年には北方の東突厥を滅ぼし、635年には西方の吐谷渾を壊滅させ、640年にはシルクロード沿いの高昌国を滅ぼした。西遊記で有名な玄奘三蔵はこの侵攻にあわせて西域を偵察し唐に軍事情報をもたらした。
- 640年代に入り、いよいよヤバくなった極東地域では、642年高句麗で淵蓋蘇文がクーデターを起こして実権を握り、641年義慈王が即位した百済では642年に新羅に侵攻し大勝利、643年には高句麗百済が同盟し、新羅を圧迫した。
- 一方の倭国。推古天皇崩御の628年、山背大兄王を推す勢力は少なく、田村王舒明天皇が順当に即位した。
※もともと山背大兄王は母方が蘇我氏で皇族ではないため、即位資格としては弱い。それよりは、一つ下の世代として、厩戸皇子と推古天皇の孫の橘大娘の子の白髪部王や、山背大兄王と厩戸皇子の子の上宮大娘姫王の子の弓削王の方が血統として皇嗣に相応しい(上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱)。境部摩理勢は蘇我氏長老として上宮王家の血統の良い若き皇子に皇位継承すべきとして、敏達系王家と対立したのが真相だろう。 - 642年舒明天皇が崩御したとき、上宮王家と敏達系王家が対立。舒明天皇皇后の宝女王(皇極天皇)が即位した。敏達系の宝女王は、自分の子、葛城皇子(中大兄皇子)へ皇位継承するため、643年には上宮王家を攻め滅ぼした。
※上宮王家討滅事件は主犯は蘇我入鹿ではなく皇極天皇本人で、ターゲットは山背大兄王ではなく、血統の良い若い皇子たちだった(上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱)。
※蘇我本宗家を仕切る蘇我蝦夷と入鹿は、丁未の乱で軍事貴族としての物部の資産を受け継ぎ、上宮王家とは疎遠となって、皇室の忠実な下僕として宝女王に従った。 - 国際情勢が危急を告げる中、内紛に明け暮れる状況に、心ある官僚は眉をひそめた。至急軍備増強策をとらなければ唐に攻め滅ぼされる。そうしたグループが軽王子(孝徳天皇)の元に集まり、宝女王(皇極天皇)へのクーデターを引き起こした。それが乙巳の変、大化改新である。
- 軽王子(孝徳天皇)としては、有能であり物部の軍事力も握っている蘇我入鹿を仲間に引き入れたかったであろう。しかし、入鹿は宝女王(皇極天皇)に忠誠を尽くした。入鹿は宝女王を守って惨殺され、蝦夷も滅んでしまう。蘇我本宗家の軍事権益の継承を完了したところで、軽王子は宝女王の生死は不問とした。
※宝女王が位を譲ったとあるが、史上初の死ぬ以外の退位が簡単にできるのだろうか。実は退位していなくて、単に実権を奪って二朝並立状態になったと考えたほうが自然。 - 軽王子は、中国風の新しい王朝を作るとして即位し、我が国初の元号「大化」も定めて難波に遷都した。孝徳天皇の誕生である。孝徳天皇のもと、中臣鎌足らが中心となって軍備増強のための改革を断行。百済一辺倒だった外交も、新羅使節団を受け入れるなど、積極外交を展開した。
- このままでは、血統が孝徳天皇に固定されてしまう。そう考えた宝女王は、孝徳天皇皇后で自分の娘である間人皇后を653年に倭京へ連れ出した。間人皇女に子供が生まれれば皇嗣筆頭となり、中大兄皇子は天皇になれないところであった。さらには654年に孝徳天皇が急死する。タイミングとしては暗殺の疑いが濃厚である。
- 孝徳天皇が去り、権力奪取に成功した宝女王(皇極天皇改め斉明天皇)は、孝徳天皇が構築した強権を、天皇の権威強化のための土木工事に費やす。これは相当に評判が悪かったようで、日本書紀も無視できず、悪評の記載が残っている。こうして、運命の660年を迎える。
- 唐は645年に太宗が高句麗親征するも征服できず、649年には太宗は舞台から去る。ところが唐はここで衰えず、657年には西突厥を撃破。イスラム帝国と国境を接するところまで行ってしまう。
- そして660年に唐は高句麗の背後を狙い百済を急襲。あっという間に滅ぼしてしまった。大量の百済遺民が倭国に避難してきて、宝女王をはじめ奈良盆地政権は呆然としただろう。
- 即座に全国に兵力の動員をかけて北九州に集結させたが、北九州で宝女王が崩御(661年)する。その後中大兄皇子が中心となってできる限りの兵力を朝鮮半島に投入。663年の白村江の戦いで唐に負けないだけの兵力は整えたはずが、百済の内部抗争もあって大敗を喫する。中大兄皇子としては「何やってんだよ!」と地団駄を踏みつつ、このまま行けば滅亡確定と顔面蒼白だっただろう。
- 幸い唐は高句麗征服に向いていたので、倭国からは手出しが無ければ良い状態。百済を拠点として高句麗を攻め、666年淵蓋蘇文没後、668年に高句麗を滅ぼした。唐としては新羅は完全に属国だったので、これで朝鮮半島征服完了となる。
- ところが新羅がゲリラ戦を展開。670年から唐と新羅で戦闘状態となる。唐の郭務悰は天智天皇近江朝廷に対し新羅ゲリラ殲滅作戦への協力を依頼。一方の新羅は近江朝廷に対し唐駆逐のための軍事支援を依頼。どうする天智天皇?
- 671年、死の床についた天智天皇は大海人皇子に新羅殲滅作戦を指揮するよう依頼。百済遺民で溢れていた近江朝廷は新羅殲滅で一致していた。一方の大海人皇子は現実派。新羅が滅びたら次は自分達。新羅殲滅作戦はあり得ないと一蹴。しかし国内で割れるのは良くないから口は出さないと言って吉野に逃げた。
- ここで鸕野讃良皇女がささやく。「殺されるので東に逃げましょう」と。言われた通り美濃まで来てみると新羅殲滅作戦用にかき集められた兵士がいた。「とりあえず西に行こう」といって軍を接収し、「敵は大津宮にあり」として関ヶ原を突破。一気に近江朝廷を潰して朝鮮半島出兵を土壇場でキャンセルした。これが672年の壬申の乱。
- 唐側は倭国の支援なしで674年に新羅遠征を行うも失敗。676年には新羅が百済旧領土から唐を駆逐。もともと突厥と結ぶ高句麗勢力の排除が目的であった唐は戦略価値のない朝鮮半島征服を断念し、新羅は生き残った。なお、高句麗の遺民は東北の奥地で698年に渤海国を建国した。こうして激動の七世紀は終わった。
蘇我馬子、孝徳天皇、天智天皇、天武天皇により、国家としての骨格が組み上げられ、万世一系の歴史が編まれ、国号が日本となり、大王は天皇となり、最後は持統天皇と藤原不比等が資産を継承し、701年大宝律令、720年日本書紀完成をもって、日本は誕生した。
歴史に『もしも』は禁物だが、色々と考えさせられる七世紀の歴史。