関門海峡制圧(仲哀天皇崩年の前年:記崩年干支によると361年)以降、莫大な富と文化が瀬戸内海・難波に流入。巨大な前方後円墳の造築が可能になり、記録も詳細に残せるような文明開化が起こった。
このため五世紀の歴史は詳細な様子がわかる。以下は、各天皇の元年崩年をまとめたもの。
※記紀記事の西暦(絶対年代)への比定については、不確定性が多い。日本書紀はストーリー上の都合に応じて改竄している可能性が高いほか、暦について春秋二倍暦などを考え始めると、あらゆる解釈が可能になる。上記表では、古事記記載の崩年干支が、一年暦に換算された正確なものとして、各天皇の元年崩年を整理した。
以下、5世紀の様子を紹介する。系図は『世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』を参照。
- 仁徳天皇の治世は427年崩御までとなる。仁徳天皇も応神天皇と同様に分割統治を企図し、墨江皇子を皇嗣として、イザホ別(履中天皇)には若狭水軍を、ミズハ別(反正天皇)については紀伊水軍を、若子宿禰(允恭天皇)は宇治若郎子の後継者として大和を引き継がせた。
※イザホ別、ミズハ別は、「別」とあるので皇嗣ではない。墨江中(スミノエノナカツ)皇子が皇嗣であったと思われる。 - しかし仁徳天皇没後は再び後継者争いが勃発。イザホ別が墨江を粛清して第十七代履中天皇(432年没)となるが、短命で終わり、ミズハ別が第十八代反正天皇(437年没)となるも、同じく短命で終わる。
- この仁徳からはじまる3代は難波に拠点を置く河内播磨政権であり西日本を支配し、東日本は宇治若郎子を継いだ若子宿禰(第十九代允恭天皇)が奈良盆地政権として支配を分担していた。
※允恭天皇の名は小朝妻若子宿禰とあり、唯一の「宿禰」の姓を持つ天皇。皇族の名前でないことから、臣籍降下したか、そもそも皇族でなかったか。系図上、イザホ別らの同母弟となっているが、疑問である。一方で、名前の構造が宇治若郎子と似ていて、「小=二代目」「朝妻=奈良盆地南東葛城の地名」「若子宿禰≒若郎子」となり、「武内宿禰一族に支持された二代目の若旦那」と読める。いずれにせよ、河内播磨政権とは別に、奈良盆地政権を任されたとみられる。437年反正天皇没後に、一年空位の後、即位したことになっているが、継続支配していて改めて即位するという意識があったか疑問であり、「宋書倭国伝」にも「済」はあたかもずっと地位にいたような記載となっている。 - ここで履中の子、市辺オシハが即位するが支持が得られず、皇統は允恭天皇に移る。允恭天皇没(454年)後は、短いアナホ(安康天皇457年没)治世に続いて、ハツセ(雄略天皇)の治世に移る。雄略天皇は、「天に二つの日なし」としたか、457年に安康天皇が暗殺されたのを契機に、河内播磨政権を粛清、市辺オシハを殺して同政権を支えていた葛城氏を滅ぼし、即位した。即位後は、吉備に介入。河内播磨政権と共に栄華を誇っていた吉備勢力を粛清した。
※眉輪王の乱などの一連の混乱を、日本書紀は456年としているが、古事記の允恭天皇崩年454年(紀は453年)から、紀の記載年は1年ずれていて457年のこととした。 - 雄略天皇(489年没)は天皇中心の専制国家を作り上げたが、後継者作りに失敗。気がつけば祭祀王として倭根子の祭祀を復活させた(おそらく後継者を作る能力がなかった)シラカ倭根子王(清寧天皇494年没)しかいなくなっていた。
- このため市辺オシハを引き継ぎ巫女として祭祀を継続していた飯豊王に河内播磨政権の復活を許し、飯豊王(480年没)、ヲケ王(顕宗天皇483年没)、オケ王(仁賢天皇494年没)が、河内で相次いで即位した。
- 一方で、奈良盆地政権は清寧天皇の後継者作りに着手。允恭天皇皇后の一族(息長王家)のヲホド王(継体天皇)一族に河内播磨政権の皇女を迎えることで、血統の統一を企図した。
※允恭天皇没から雄略天皇即位までの450年頃は、日本書紀と古事記の記載は1年の誤差で付合するが、雄略天皇没以降欽明天皇まで内容が混乱する。この問題は、河内播磨政権と奈良盆地政権が二朝並立していたと考えると解決する。日本書紀が雄略天皇没年とした479年、誤差1年を加えて480年を、河内播磨政権復活年=飯豊王崩年とした場合、日本書紀の顕宗天皇以下の記年を4年繰り上げることで色々と辻褄があってくる。雄略天皇崩年は古事記から489年、このため清寧天皇の崩年は日本書紀を10年繰り下げることで494年。これは日本書紀を4年繰り上げた仁賢天皇崩年494年と付合する。また、継体天皇崩年も527年で付合するようになる。 - オケ王の没(494年)後、皇子の小ハツセ(武烈天皇)は雄略天皇と同様に皇統の統一を目指し、奈良盆地に入り494年に清寧天皇を粛清し、統一王として即位。権力の一極集中を目指すが、豪族からの反発をくらい、継体天皇を推す勢力に502年に排除された。こうして503年に継体天皇は即位した。
※武烈天皇は「小=後」「ハツセ=雄略」とあるように後の時代風に言えば後雄略天皇。天皇の権力強化を目指した偉大な天皇であったと思われるが、当然、豪族からのウケは悪かった。日本書紀での扱われ様はひどすぎる。淡海三船はそういう事情を知っていて「武烈」としたのだろう。
※東北まで逃げた武烈天皇の側近の一族がいて、宮城県の山中にある「櫻田山神社」を創建した。その末裔がタレントの狩野英孝。世が世なら、武烈天皇がもう少しうまくやっていたら、聖徳太子も藤原氏も源氏も生まれることなく、彼が正統の皇位継承者!だったかもしれない。
※503年と言えば「隅田八幡神社人物画像鏡」が作られた癸未の年。この鏡は、『継体天皇が大王位を嗣ぐ癸未の年に、忍坂宮に行幸していた同天皇に対し、百済の武寧王斯麻が同天皇の長寿を祈念して作った記念品』と解釈できる。
※一般に、継体天皇の即位に反対する勢力があり、大和入りに時間がかかったとされるが、河内播磨政権と奈良盆地政権の統一政権を作った関係上、国内外の情勢から適切な場所に宮を置いていただけで、反対勢力がいたから奈良盆地に入れなかった訳ではない。そもそも継体天皇は奈良盆地政権が延命のために作り出したものであり、継体天皇にとって奈良盆地はホームグラウンド。アウェーを転戦した後、最後にホームに戻ってきた形。
「宋書倭国伝」には、関門海峡を制圧したことで、国際社会と接点を持ち始めた倭が、自らの立ち位置を東アジア世界のなかでどのように構築するか、苦心していた様子がみられる。朝鮮半島の制圧がうまくいかない中、中国に地位を認めてもらうという外交という手段があることに気づき、仁徳天皇以降、宋に対し、朝鮮半島の他国よりもより良い地位を認めるよう働きかけていた。このような中国の冊封体制に入るという努力を半世紀程度にわたり続けたが、朝鮮半島であまり目立った成果が出せず、雄略天皇晩年以降、中国の冊封体制から離脱し中国と対等の関係を目指す方向に切り替えた。
ここで、倭の五王であるが、「倭の六王」とすると理解できる。履中天皇について、経歴や名前が仁徳天皇と似ていることもあったのか、倭王讃の名を継いだと考えると、最初の讃は仁徳天皇、珍の兄の讃は二世の讃で履中天皇。反正天皇は、茅渟(「珍」とも書く)の地近傍を拠点にしていたので珍。允恭天皇は河内でなく奈良盆地の政権であったので、珍との関係が不明瞭である済、安康天皇が興、雄略天皇が武となる。
四世紀に全国統一を果たしたものの、広大な国土を支配するため、応神天皇、仁徳天皇とも、分割統治を考え、結果として、西日本を支配する河内播磨政権と東日本を支配する奈良盆地政権のニ朝並立状態になった。雄略天皇が一旦統一に成功し、武烈天皇は夢半ばで倒れ、継体天皇で完成に見えたが、欽明朝初期でまた分裂する。六世紀に至るまで、日本は二朝並立がむしろ普通といった状態で発展してきたようだ。