上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

解説:景行・成務天皇の不可思議

前回「系図:倭根子王家・吉備氏② - 上古への情熱」は倭根子王家について説明したが、倭根子王家は系図上は景行天皇の代で途絶える。

 

倭根子王家・吉備氏系図

※作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。

 

景行・成務による倭根子王家簒奪

  1. 倭根子王家は系図上は景行天皇の世代で終わる
  2. 景行天皇は、ハエイロドの子、四道将軍派遣時に吉備を征服した若彦建吉備津彦の子の、播磨のイナビ大娘(景行皇后)・イナビ若娘の姉妹を娶り耳王家・磯城県主家の子孫の立場となっている。
  3. 皇后イナビ大娘の子に若倭根子皇子がいて、倭根子王家最後の若倭根子彦オオヒヒ開化天皇を継いだように系図上見える。(日本書紀では八坂入姫の子としているが、古事記のイナビ大娘の子とする説をここでは採用している。)
  4. すなわち、耳王家磯城県主家の正統な後継者を自認した景行天皇および播磨イナビ大娘皇后が倭根子王家を簒奪し若倭根子皇子に継がせたと解釈できる。
  5. さらには、この若倭根子皇子の子が吉備郎女で成務天皇となり、成務天皇は世俗祭祀統一王となったと解釈できる。
  6. 6世紀末から7世紀初頭に万世一系系図が構築された際に、孝霊天皇から開化天皇は、崇神天皇の前に継ぎ足されたことから、このあたりの経緯は抹消されたと見られる。

 
景行・成務の不可思議

  1. 景行・成務による倭根子王家簒奪の経緯は記録から抹消されたと説明したが、成務から仲哀への継承の経緯も抹消されているようで、よくわからない
  2. 日本書紀は景行・成務の両天皇とも在位60年、すなわち即位と崩御の干支が同じで、在位も干支一回り60年として、かなりいいかげんに記述している。景行・成務の両天皇の事績は正確に伝わっていないようだ。
  3. シナリオ:5世紀『倭の五王と二朝並立』 - 上古への情熱」でも説明した通り、ある程度、正確な事績が残るのは関門海峡を制圧した仲哀天皇以降であり、景行・成務の事績が正確でないのも理解できる。
  4. なお、成務天皇の崩年は明確で古事記の崩年干支から355年とわかる。 

 

景行天皇には即位前に播磨へワケられて赴任した先の実力者で耳王家系の後裔である播磨イナビ大娘皇后と、即位後に制圧した美濃の八坂入姫皇后がいる。

 

垂仁天皇の王子として播磨にワケられたオシロワケ景行天皇播磨の勢力を使って大和を制圧(皇嗣の五十瓊敷入彦を追放)

美濃を手に入れたあとは、美濃の勢力を使って播磨の勢力を駆逐する(ヤマトタケル敗死)

③最後は播磨と組んだ息長を制圧しようとして失敗(仲哀天皇即位)する。

 

次回はこのあたりを詳しく追ってみる。