上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

系図:和珥氏 息長氏 彦坐王家

崇神天皇の時代の彦坐王』以来代々「王」を称する家系について。

 

概要

  • ミマツ彦カエシネ(第五代孝昭天皇)の子で倭足彦(第六代孝安天皇)の兄である天足彦から派生する和珥氏から出た皇族は、彦坐王以来、代々「王」を称する家系となっている
  • 最終的には、継体天皇を出し、敏達天皇を経由して、舒明皇極、天智天武に繋がり、現代へ続く天皇家として勝ち残る。

 

以下に天足彦、彦坐王から皇極天皇に至る系図を示す。(なお黒帯の数字は「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」の系図と同じく誕生年を示す。)

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神功皇后までの経緯

  1. 彦坐王は大和盆地北部を拠点としていたが、子の佐保彦王は垂仁天皇に滅ぼされる
  2. ただ佐保彦王は系図上傍系のようで、直系と思われる2代(大筒城真若王、若筒城王)は山代の筒城に拠点を置く。
  3. その後の息長宿禰王のときに関ヶ原西の坂田(現在の米原に拠点を構えた。
  4. 息長宿禰王が仲哀天皇と関係した経緯は記紀には書かれていないが、ヤマトタケル伊吹山の戦いの後に命を落とした(五百城(=伊吹)入彦と伊吹山関ヶ原で戦ったと思われる)際に、息長宿禰王はヤマトタケルの遺児を庇護したようだ。
  5. 景行天皇晩年、景行天皇成務天皇の親子は近江の琵琶湖沿岸の大津に都を移した。琵琶湖から若狭丹波を経て朝鮮半島へ至る交通の要衝をおさえるためと思われるが、このとき、琵琶湖権益を巡って坂田の息長宿禰王と対立した可能性がある。最終的に仲哀天皇を擁した息長宿禰王側が生き残った記紀ではこの辺りの経緯が全く記されていない。
  6. 仲哀天皇は即位早々、北九州征服に乗り出し、現地で急死。その後の忍熊王との戦いで、息長足姫(神功皇后)以外の息長一族は忍熊王に滅ぼされたのか、仲哀天皇と同時に息長宿禰王に庇護され生き延びたと思われるヤマトタケルの遺児、息長田別王が息長の名跡を継いだ
  7. なお、神功皇后が若狭気比宮から長門へ向かっていることからもわかるように、この一族は、丹波、若狭、近江に勢力基盤を持っていたとみられる。仲哀天皇以前は関門海峡を制圧できていなかったため、朝鮮半島から大和へのルートは新羅丹波若狭⇔琵琶湖⇔山代⇔大和となり、このルートを抑えていた

 

継体天皇に至る経緯

  1. 息長田別王の孫が応神天皇の息長真若中姫で若ヌケニ派王を産み、若ヌケニ派王の子の忍坂大中姫が允恭天皇皇后となり、安康・雄略を産み、直系が継体天皇となる。
  2. 継体天皇にかわり息長を継いだ息長真手王からは、孫が敏達天皇妃となり、舒明・孝徳・天智・天武につながるが、息長真手王以降の息長氏は臣籍降下し、歴史から消えていく。このためか、息長真手王の系図はよくわかっていない。ここでは継体天皇の子の阿豆王が息長を継いだとする説を採用している。
  3. 継体天皇に繋がる王の系図をみると、允恭天皇皇后の兄弟として、オホ(大)ホド、その子ヲヒ王、その子ウシ王(又の名を彦主人王)、そしてヲ(小)ホド王(継体天皇)となる。ホドをどう捉えるかによるが、大ホド王は允恭天皇の義弟という意味で大弟王、その子は甥という意味で甥王継体天皇清寧天皇武烈天皇の義弟という立場で、二代目弟王という意味で、小弟王と解釈できる。
  4. 継体天皇は応神5世孫とされているが、応神継体間の年代と世代数を見ると一世代多いため、ヲヒ王とウシ王は同一人物の可能性がある。また、大ホド王と允恭天皇皇后忍坂大中姫の世代は、若ヌケ二派王ではなく、応神天皇とカグロ姫の子との伝承もあり、以上を踏まえると応神天皇3世孫との主張も可能であったように見える。殊更に5世を強調したのは何故だろうか。万世一系系図を確立させた推古天皇蘇我馬子の間で上宮王家を5世孫まで即位可能とするための前例とするなどの何らかの意図があったかもしれない。

 
継体天皇天皇家と縁が遠いと言われるが系図上はそう見えない雄略天皇を継ぐのは雄略同世代のウシ王(彦主人王継体天皇の父)か次世代ヲホド王(継体天皇)となるのは規定路線であったとみられる。