上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

解説:記紀が語る領土拡大の歴史

畿内政権の制圧圏、日本の範囲はどのように拡大していったのだろうか。

記紀が語る領土拡大の歴史についてまとめてみた。

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ハニヤス王鎮圧時の制圧圏

  1. 畿内ハニヤス王の反乱鎮圧時点で制圧は完了したとの歴史認識のようで、日本書紀には「畿内無事」との記載がある。
  2. このほかに、崇神天皇即位後、制圧伝承のない地域として、紀伊半島と四国がある。ミマツ彦カエシネ(孝昭天皇)が、宇陀の水銀朱などの鉱物資源の権益を求めて、出身母体の事代主一族が支配する四国那賀川流域から紀ノ川を遡って奈良盆地南西の玉手の地に進出したと『解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱』や『シナリオ:2世紀末から3世紀初頭『綏靖天皇のクーデターと世俗王孝昭天皇の登場』 - 上古への情熱』で説明したが、水銀朱などの鉱物資源の権益確保のため、崇神天皇即位時には四国及び紀伊半島を既に抑えていたと思われる。
  3. したがって、ハニヤス王制圧の時点で、畿内紀伊半島、四国が制圧範囲
  4. 崇神天皇の即位は3世紀中頃『シナリオ:3世紀中頃『統一王崇神天皇の登場』 - 上古への情熱』であるから、崇神初期のハニヤス王鎮圧時は3世紀中頃となる。

 

四道将軍による制圧範囲

  1. 崇神天皇初期に四道将軍派遣伝承がある。
    東国については、大彦とヌナカワ別の親子が会津まで行っている。なお、内陸部の制圧については豊城入彦が実施したと考えられる。
    山陰道については、彦坐王丹波道主王親子により丹波まで。出雲はまだ制圧圏外。
    山陽道については、五十狭芹彦と若建彦で、吉備国まで
  2. したがって、この時点での制圧圏外は、出雲以西、吉備より西側、関門海峡及び九州となる。
  3. 四道将軍派遣はハニヤス王鎮圧直後なので、時期としては同時期で、3世紀中頃

 

建諸隅による出雲制圧

  1. 崇神天皇の晩年に、建諸隅による出雲制圧伝承がある。建諸隅に対し出雲の飯入根が降伏。その後、飯入根の兄、出雲振根が北九州勢力を背景に飯入根を殺害。四道将軍吉備津彦と建ヌナカワ別が出雲振根を粛清した。
  2. ちなみにこの建諸隅であるが候補が3人いる。①日本書紀を素直に読んだ場合は物部武諸隅となるが系図上の年代が合わない。②最もありそうなのが崇神天皇の義弟の尾張氏の建諸隅。③また案外あり得そうなのが、大倭根子彦フトニ(孝霊天皇)兄弟の大吉備諸進。世代については「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」で解説した世代修正系図では崇神世代となって系図上の年代の不整合はなくなる。
  3. 出雲制圧の時期としては崇神天皇末期にあたるので、3世紀後半
  4. ちなみに、崇神天皇崩年前後に、ツヌガアラシトが来日した伝承がある。はじめに長門に着いたところ、伊都都彦が「私がこの国の王だ。私以外にいない」と言ったが怪しく思って、北を回って出雲経由でやってきた。伊都都彦は伊都津彦で伊都国王崇神天皇崩年前後は伊都国が関門海峡を制圧していた。

 

景行天皇の九州巡幸

  1. 景行天皇は、九州親征で周防から豊前に入り九州中南部を制圧している。
  2. ここで、松浦や伊都などの北九州沿岸と関門海峡へ侵入していないことから、この時点で、北九州と関門海峡が制圧圏外となる。
  3. 景行天皇初期にあたり、『シナリオ:3世紀後半から4世紀前半『垂仁天皇、景行天皇、ヤマトタケル』 - 上古への情熱』の通り、時期は4世紀前半

 

仲哀天皇神功皇后による日本統一

  1. 仲哀天皇関門海峡と北九州の制圧に乗り出し、途中で斃れたが、神功皇后によって完遂され日本統一となった。
    仲哀天皇即位後早い時期長門国を制圧。
    崩御前年に関門海峡を制圧し、灘県橿日宮(奴国)に入り、伊覩県(伊都国)は降伏。
    崩御後の崩御年中に、山門県松浦県を制圧し九州制圧完了=日本統一し、北九州勢が持っていたと思われる朝鮮半島南部の任那の権益を継承した。
  2. 古事記の崩年干支からは、成務天皇崩年は355年仲哀天皇崩年は362年となる。古事記崩年干支を正しいとすると、長門制圧が350年代後半関門海峡制圧が361年九州完全制圧及び任那権益継承が362年となる。

 
このように、記紀を解釈すると、松浦国・伊都国が支配下に入るのが仲哀天皇末期の360年代であり、魏志倭人伝の240年代とは120年違う
 
日本書紀は、神功皇后卑弥呼と合わせるために120年繰り上げたのではなく、北九州制圧伝承と合わせるために120年繰り上げたのが真相だろう。