上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

解説:邪馬台国論争に終止符を

邪馬台国論争のキーポイントは、

 

240年代の伊都国が属していた女王国は畿内の政権と言えるのか?

 

解説:記紀が語る領土拡大の歴史 - 上古への情熱」を見てみると、邪馬台国論争にも明確な結論が出るように思う。


魏志倭人伝に見る伊都国

  1. 魏志倭人伝では240年代に魏側の使者が倭国に訪れていることから、240年代の倭国の様子を記載している
  2. 伊都国は「代々王がいて、みな女王国に属する帯方郡の使者が往来し足を止めるところ」とされている。
  3. 240年代に伊都国は女王国すなわち邪馬台国に属していたことになる。

 

日本書紀に見る伊都国

  1. 日本書紀では仲哀天皇崩御する前年に伊覩県主の五十迹手が降伏している。それ以前に記紀で述べられた政権がこの地域と関係を持ったとは書かれていないので、仲哀天皇崩御の前年が伊覩県が制圧圏に初めて入った年と考えられる。
  2. 古事記崩御干支から仲哀崩年は362年。伊覩県が制圧下に入ったのは361年となる。
  3. この伊覩県は魏志倭人伝の伊都国と同じで、旧怡土郡、現在の福岡市西区付近で間違いない。
  4. 日本書紀の編者は、北九州制圧伝承と魏志倭人伝が120年違うので、120年繰り上げた紀年を行ったと考えられる。

 

記紀の240年代

  1. 記紀の240年代崇神天皇即位前後の時期であって、三輪山麓の纏向近傍に政権があったのは確かだが、記紀は、その政権が伊都国を含む北九州を制圧圏としていたような記載はない。200年代後半に四道将軍派遣や建諸隅派遣で、ようやく吉備や出雲が制圧圏になる程度であり、北九州から見ると遠い国であった。
  2. また、崇神天皇崩年前後で、大加羅国のツヌガアラシトが来日した際、長門で伊都都彦が「私がこの国の王だ。私以外にいない」と言ったという伝承がある。伊都都彦は伊都津彦で伊都国王であるから、崇神天皇崩年前後の200年代後半は関門海峡を伊都国が制圧していたと理解できる。
  3. このように、記紀の記載を見る限り魏志倭人伝時代に伊都国が属していた国は畿内の政権ではない

 

やっぱり邪馬台国は九州とするのが自然

  1. 記紀によると邪馬台国畿内政権ではないので、やはり邪馬台国は九州にあったとするのが自然である。
  2. さらに、仲哀天皇崩御直後に神功皇后に滅ぼされた山門県が邪馬台国の後裔と考えるのが自然であり、日本書紀の編者もそう思って記載しているように見える

  3. この時代では、畿内政権は北九州から遠い国で、魏志倭人伝には記載されなかった。
  4. 投馬国は日向に比定できて、長官がミミであるとは、神武天皇が日向出身でミミの名を持つ一族であることと整合している。

 

無理矢理でも畿内説を考えてみる

  1. 卑弥呼に相当する人物は記紀に登場しないのだろうか?
  2. 世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱』にあるように、時代的には、
    卑弥呼=ハエイロネ(倭国阿礼姫)、
    弟王=孝霊天皇
    がピッタリと合う。また
    トヨ=ハエイロネの娘のモモソ姫
    との解釈もピッタリとハマる。
  3. 240年代に末廬国や伊都国が畿内政権の制圧下にあったと証明できれば畿内説が勝利できるが。さて。

 
魏志倭人伝邪馬台国神功皇后に滅ぼされて記紀にその歴史が残されなかったということなのだろうか。
 
磐井の血筋が残っていれば、伝承も残った可能性もあるが、磐井の乱とともに、闇に消えてしまったのだろうか。

 

それとも蘇我馬子の歴史編纂時に万世一系に邪魔な歴史として消されたのだろうか。