上古への情熱

徒然なるままに上古に想いを馳せて書きつくる備忘録

系図:初期天皇家系図④:崇神天皇に至る系譜

初期天皇家系図

系図作成上の基本的な考え方は「上古の時代の系図の作成 - 上古への情熱」及び「世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」を参照。

 

  1. 崇神天皇に至る基本的な経緯は以下の通り(参照「解説:第五代孝昭天皇と第十代崇神天皇の出自と水銀朱利権について - 上古への情熱」)。
    弥生時代後期、事代主一族が那賀川上流の水銀朱鉱山を開発
    ②その後、大物主一族が、日向出身の饒速日と、那賀川の事代主一族のトミ彦とともに大和の宇陀の水銀朱鉱山を開発
    ③噂を聞きつけた日向のホホデミ(初代神武天皇)が三輪山麓に乗り込んできて、大物主一族と手を結び、饒速日とトミ彦の一族を追い出した
    ④しかし物流は引き続き事代主一族が支配していて、ミマツ彦(第五代孝昭天皇)が大和盆地南西の玉手の地に拠点を置き世俗王となり、祭祀王としては玉手見(第三代安寧天皇)の即位を後押し
    ⑤最後はミマキ入彦(第十代崇神天皇)が三輪山麓を支配し、祭祀・世俗を統一した王となるが、早々に祭祀は諦めて、倭根子(第七代孝霊天皇)を連れてきて、新たに祭祀王とした。
  2. 具体的な系譜であるが、那賀国造の祖先のミマツ彦イロドは事代主の孫で天八現津彦の子ミマツ彦イロドは「ミマツ彦の弟」という意味で、五代ミマツ彦孝昭天皇の弟と解釈できる。五代ミマツ彦孝昭天皇那賀川から大和盆地南東部の玉手の地に進出した事代主一族と理解できる。
  3. 五代ミマツ彦孝昭天皇の子が、天足彦国押人と倭足彦国押人(六代孝安天皇)の兄弟で、大和盆地を南北に分割統治したようだ。北側の和珥の地を天足彦、南を六代倭足彦孝安天皇が統治した。
  4. この後に崇神天皇が出て耳王家の祭祀を停止し統一王となる。一方で大和盆地北部は天足彦のあとを彦坐王が継いだ(「シナリオ:2世紀末から3世紀初頭『綏靖天皇のクーデターと世俗王孝昭天皇の登場』 - 上古への情熱」)。
  5. 現在伝わる万世一系系図では崇神天皇孝安天皇の間に倭根子王家がはさまっている世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱」ため、崇神朝の主要人物の出自がよくわからない。崇神天皇だけでなく、崇神天皇の兄弟の彦坐王、大彦、ハニヤス彦(の父方)がよくわからない。彦坐王の系譜は、万世一系の系譜に合わせて、天足彦と彦坐王の間に数代挟まっている。
  6. 崇神天皇の名はミマキ入彦であり、皇后がミマツ姫/ミマキ入姫であるので、出自は五代ミマツ彦孝昭天皇と同じであり、那賀川事代主系とするのが自然。六代倭足彦孝安天皇とミマキ入彦イニエ崇神天皇は親子とも解釈できる。
  7. ここからは、妄想に近い解釈であるが、大彦は崇神天皇のおじなので天足彦=大彦。ハニヤス王反乱時に大彦と彦国葺が鎮圧していることから、天足彦と彦国葺の間の、和珥国押人、彦国オケ津は、天足彦と同一人物。こうすることで、系図の不自然さが解消される。
  8. いずれにしても、大和盆地南東部の玉手の地に進出したミマツ彦カエシネ五代孝昭天皇は、耳王家三代の磯城津彦タマテミ安寧天皇と連携するとともに、大和盆地北部を長男の天足彦国押人に制圧させ、自身の後継は倭足彦国押人とした。倭足彦の後継としてミマキ入彦崇神天皇天皇家を継ぐ
  9. 一方、「系図:和珥氏 息長氏 彦坐王家 - 上古への情熱」の通り、天足彦の後継として彦坐王天皇家とは別の王家として丹波・若狭・近江・山代を支配し、神功皇后継体天皇敏達天皇皇極天皇を出し、後の時代に続く天皇家として勝ち残ることになる。